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手をふってスキップをして
山形市のM町に住んでいたとき、向かいのWさんの玄関脇に、ポポーという実のなる木が植えてあった。ポポーは10月くらいになると、4、5個かたまっている実が黄色に熟して、果物らしいみかけになる。
中1の放課後、もう家に帰っていたわたしが、窓を開けてWさんの家の方をのぞくと、4人の子供がポポーの実を盗ろうとしていた。
小学生の男の子が2人と女の子が2人、塀に手を掛けたり、爪先立ったり、周囲を警戒している様子の子もいた。
窓から見ているわたしのそばに、ちょうど母が来たので、わたしは指差して起きている事を教えた。
見覚えから、わたしにも分かっていたことだったが、「養護所の子供たちだね」と母は言った。
「盗ってるよ」とわたしが言うと、「誰も食べないで、毎年落ちて腐るだけなんだから、いいんだよ。」と言う。「かわいそうに」と見ていた。
「腹を空かして、あんなものじゃしょうがないから、オヤツを上げよう。」と言って、母は玄関先に出て行った。
ところが、声を掛ける間もなく、子供のうちの3人は走って逃げて行ってしまい、女の子が1人だけ取り残された。
母が何か言い聞かせて、女の子を縁側のところに連れてくるのをわたしは見ていた。髪をおさげに結った痩せた子だった。
縁側に腰掛けて、母と女の子は1時間ほど話していた。次第にうちとけて、女の子はさつま芋を手に持ったまま振り返って、家の中を見回したり、わたしの方へ視線を投げて来たりした。
少し離れたところで、わたしは柱に寄りかかって、学校の図書館から借りてきた本を読んでいた。
養護所は、わたしの家からお宮の方へ1キロばかり行った所にあった。何かの理由で扶養能力に問題が起きた親の子を、中学卒業の時点まで預かる市の施設で、50人くらいの子供が集団生活をしていた。わたしの同級生にもそこから通学している生徒はいた。
「また来て好いからね。施設の人が心配するといけないから、今日は帰んなさい。」と言うと、女の子はランドセルを背負って、母に手をふってスキップをして帰って行った。
夕方、大学から戻った次兄のAと母が、養護所の子供たちについて話しあっているのを聞いて、女の子は咲子ちゃんという名前なのだと分かった。
その日から何度か、咲子ちゃんはわたしの家に寄って、母と会って行くことがあったらしい。
その頃中学校で、わたしは軟式テニスのクラブ活動をしていて、帰宅するのは6時を過ぎてしまうのが普通だったから、その日以来、寄り道の咲子ちゃんと顔を合わせることはなかった。
そして、その年の12月に、母は大腸癌の手術のため、市の中心部にあった病院に入院した。母の入院の期間は思いがけず長びき、退院してきたのはもう翌年の梅雨の前だった。
母が入院している間に、次兄のAは1人で家の前に立っている咲子ちゃんに、何度か合ったという。1度「おばちゃんは家にいないの」と聞かれて、入院療養のことを話して聞かせると、それからは次兄のAと顔を合わせても、ただ黙って去ってしまうばかりだったらしい。
母は、その夏を乗り切るのに体力を使い果たして、秋口に亡くなった。
それから2年間くらいの間に、父と成人してゆく子供たちの絆は少しずつ緩んで、兄姉たちは1人2人と家を離れて行くことになった。
中学3年生になった年の6月ころ、昼休みの時間に、渡り廊下(向かい合わせの校舎を繋ぐバルコニーのような場所)で、級友たちと話をしていた。
わたしが通っていた中学は、1年生が3階、2年生が2階、3年生が1階の教室を使う慣わしで、2階にある渡り廊下にいたのは、そこを渡ったところの教室を使う音楽の授業を受けるためだった。
わたしたちがいた場所と反対の出入口近くの、校舎の影がさしたところに、鉄柵に背をもたせて、小柄な1年生の女の子が立っていた。
そこに1年生がいるのは珍しかったので、何回かわたしはその子を見た。
左手を折り曲げておさげの髪に触れ、右手をその左手に掛けて俯いていた。どこか見覚えのある子だなと思う内に、わたしは以前、亡くなった母に会いに来ていた、咲子ちゃんの名前を思い出した。
それから、学校の中で何度か、その咲子ちゃんらしい女の子が、遠くからわたしを見ているようなのに気付いた。
授業の間の休息時間に、1階の教室の、わたしの窓際の席から向かいの校舎を見上げると、3階の窓の1つから、女の子の姿がスッと隠れることがあった。何回かそんなことがあって、あれは咲子ちゃんに似たあの子ようだったと思った。
その年の10月、事故に会った技術科の先生の代用で、まだ学生だったわたしの次兄のAが、この中学で授業をすることになった。
次兄のAとわたしは、突然、先生と生徒の立場になってしまった。お互いに気まずくて避けあっていたが、何度かは直接授業を受けるはめにもなってしまった。わたしはそんな事への気遣いと、あと半年足らずの期日に迫った、高校受験の用意に気をとられていたが、あるとき、あの咲子ちゃんに似た子を見かけなくなっているのに気付いた。
家で次兄のAに、あの咲子ちゃんに似た1年生がいたこと。そして、気付いてみると近頃、その子をみかけなくなっていることを話した。
翌日の夜、次兄のAは職員室で1年の担任の先生たちに聞いてきたことを、わたしに話した。
咲子ちゃんの親は、山形市のK町という繁華街の外れで、飲食店と麻雀荘を経営していたという。咲子ちゃんが小学3年生の時、母親が家を出て行方が分からなくなった。夫が本来の仕事を放棄して、大きな賭け麻雀に明け暮れているのに、愛想をつかしてのことだったらしい。母親が所在不明になるのと前後して、父親の仕事は傾き、家や店を手放してもまだ借財が残る状態となった。
借金の取立てから逃れる事と、身一つでの働きを求めて、咲子ちゃんの父親は宮城県の塩釜に行って、マグロ船に乗り込んだのだという。咲子ちゃんが養護所に預けられたいきさつは、およそこのようなものだったらしい。
わたしの母親と縁側に腰掛けて話をしていたとき、咲子ちゃんはもう5年生だったことになるが、小柄なので、わたしはもっと小さな子だと思っていた。中学校の渡り廊下で、咲子ちゃんの名前を思い出しても、本人という確信が持てなかったのは、まだそんな歳ではないだろうと思っていたからだった。咲子ちゃんは、4年間養護所で親と離れて暮らしていたことになる。
咲子ちゃんの父親は、もうその頃マグロ船を降りて、塩釜でまた元のように飲食店をやっているとのことだった。そしてその夏、父親が新しくいっしょになった女性に、子供が生まれた。やっと新しい家族4人で暮らす態勢ができた、と、咲子ちゃんを引き取りに来たとのことだった。
先生たちの中には、新しい奥さんが働けなくなったので、ただ、助けの働き手が欲しくて呼び寄せたのではないか、と、心配していた人もいたという。
今もわたしが覚えている小学5年生の咲子ちゃんは、亡くなった母との出会いの後、明日に何かいいことがありそうに、手をふってスキップをして帰って行ったが、父親のもとに向かう中学生の咲子ちゃんは、自分の明日をどう思いながら汽車に乗って行ったのだろう。
その頃、塩釜は知らない町だった。わたしは曇り空の海辺を思い浮かべていた。
Wさんの閉切った玄関脇の、熟したポポーの黄色い実は、その年も食べるひともなく道路に落ちて腐った。
その年の2月ころ、Wさんは鉄工所の経営に行き詰って、すでに家族も犬もみんな家を明け渡してどこかに去っていた。家屋の脇の広い家庭菜園は、夏に生い茂った雑草がそのまま枯れて、半年と少しばかりの間に荒れた土地に変わった。
わたしの家もその翌年、そこからY町に引っ越したので、ポポーの実のある秋の風景をみたのは、その年が最後だった。
2007.12.22:
higetono
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