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魔女の一撃
ギックリ腰は魔女の一撃によって起こるという。
もう10年以上前に読んだ、米原万里さんのエッセーでそれを知った。
わたしの魔女は、正体を知られてなお、律儀に1年に2度くらいづつ現れる。
天候が崩れ気味になって、ガラスの腰が気圧に過敏に反応しているときは、細心の注意をはらって免れているのだが、ああ、何時も魔女は不意に現われるのである。
勤め先のトイレで用事を済ませて、手を洗おうとして鏡をみた。右頬に何か黒いものが着いていた。何だろうと鏡に顔を近づけたとき、わたしの魔女が現われた。
また別の時には、テニスのスクールに行こうとして玄関でシューズを履いていたとき、わたしの魔女が現われたのであった。そのまま室内に這いもどって、行けないと断りの電話をかけたのだが、実に情けなかった。
魔女の一撃の祝福の効果は、だいたい平均5日ほどで解消する。普通の一撃には、わたしはその道の職人さんのように手を打って、数日の山篭りで一作ものにした陶芸家のように、日常生活に復帰する。
しかし、ドイツW杯の1年前、フル代表の練習試合があった夜にみまわれた一撃は、これまでの最深最大のものだった。市販の鎮痛剤は効かなかった。少しの身動きが腰の神経を刺激すると、衝撃がのど元にうめき声を迫り上げて、腰から全身に走る。わたしは危うく神様の名前をよびそうになった。
その時は長期の安静に備えて、枕元にミネラルウオータの容器とバナナの房と本を置いてもらった。
床の中で、ソルジェニツインの『収容所群島』6冊を20数年ぶりに読み返した。とにかく部数のある本をというわたしの要請に応えて、わが奥方が本棚から選んだものだった。ソビエット連邦崩壊の直後から、もう1度読み返してみようと思って10数年、実行されなかったことが出来たのだから、わたしの魔女にも配慮の気持ちがあるのだろうか。
しかし、いくらわたしに親密感を持ち始めたといっても、家族にまで近づいて悪戯をするのは困ったものだ。わたしの魔女はわが奥方にも、1年半ほど前、杖の一撃を見舞った。ギックリ腰の初心者は靴下や下着を身につけることさえ、他人の手を借りなければならなかった。
さらにわたしの深情けな魔女は、我が家の愛犬、ダックスフンドのももこにも手を出したようなのだ。
2週間くらい前、ももこが散歩をしたがらなくなった時があった。飯と散歩をなによりの楽しみにしているのだから、奇妙で不安な事だった。2日くらい、したいようにさせて様子を見ていたが、30センチ程のマットにも上らなくなった。係りつけの獣医さんに連れて行くと、ギックリ腰のようですね、というのだった。
我が家、2人と2匹の家族の2人と1匹は魔女に出会った仲間である。わたしの魔女とは、老化と肥満と運動不足の別名であろうかとひそかに疑うわたしは、もう1匹の家族、やきもち焼きのヨーキーななこの喉をくすぐりながら言う、「ななこや、家族だけど急いで皆といっしょの仲間にはならなくっていいよ」と。
2007.03.06:
higetono
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