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図書館に行って本を物色していた。
『江藤さんの決断』という題名が目に付いて、手にとって見た。
そういえば、7月は江藤淳が亡くなった月だった。

『心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。平成十一年七月二十一日 江藤淳』

『江藤さんの決断』は、江藤淳の自殺について寄せられた意見の文集だった。
近くの椅子に腰を下ろして、巻頭から2編を読んでみた。
愛惜の言葉はほとんどなく、インテリなどというものはつくづく弱いものだな、という感想が書いてあった。
読んでいるうちに、不快がつのってきた。
そして、江藤淳が亡くなった直後も、こういう不快な物言いを聞いたことがあったのを思い出した。
それは小説家 大江健三郎のコメントで、大意こういうものだったと記憶している。

『江藤淳の自殺とその遺書は、脳梗塞を患って、その回復に努めている人達に大変失礼なものだ』

大江健三郎は脳梗塞を患った体を、形骸と表現した江藤淳の言葉と、その後の身の処し方を批判している。
しかし、死に臨んで一身の絶望の深さを言い当てるときも、処世のようなこころ使いは必要なのか。
どんな良心らしきものに寄り添えばこうなるのか、大江健三郎の読みの歪み方に、欺瞞を感じて不快になったのだった。

朝日出版社からでているこの本は、死者に鞭打つという、珍しい編集動機から出来ている。
愛惜を伴わない、死者についての言葉を読み進めるのはつらく、この日は早々に図書館を退散した。

2005.08.12:higetono:count(1,072):[メモ/やれやれ]
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