裏の池端にある桑の木に、くわご(桑の実)がなってます。
クワの木も手入れしないうちに、さこってます。
この赤い実が黒というか濃い紫色になったら採ると、甘くなっております。
子どもの頃は、そのあたりを騒いで、いろんな実を食べてましたね。
親には「やたらに(むやみに)食うなよ」と怒られるのですが、子ども同士で見つけて食うんですよね。
そのほかに、アカズモモ・さくらご、これからは すぐり・グミなども。
来週は食べられそうですね。
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(93)『空白の5マイル』
チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む
(角幡唯介 集英社 2010年)
冒険心というのは誰にもあるのかどうかはよくわからないのだが、私には多少あるような気がする。
それは、子どもの頃から山里に住んでいて、大きなくくりの自治体もぐるりと山で囲まれている盆地であることから、「この山を(峠道)を越えるとどこに行くのだろう」そんなことを考えていた。
そして、小学生後半に比較的に自由に自転車に乗れるようになると、親の目を盗むように峠越えを敢行して、発覚するとしかられていた。
高校を卒業すると、原チャリに乗って、もっと大きな峠越えを試みるようになった。
自分の冒険というのは、せいぜいその程度のものなのだ。
けれど、そのための準備や恐ろしさというものは、冒険者と多少の共通点があるのではないかと思うのだが。
さて、この作者は大学時代探険部に入り、数々の未踏の地と思われるところへ探検に出ている。
そうした中で、チベット、世界最大の峡谷と言われているツアンポ―峡谷の踏破に挑む。
それも、幾多の探検家が挑んでなお未知の場所と言われている「空白の5マイル」に単独で挑むのである。
探検する際には、現地の状況や国際的な関係もあり、充分かつ念入りな調査を必要とすることを筆者は述べている。それは、大学の探検部時代に先輩などに教え鍛えられたもののようである。
それでいて、筆者は、単独でふらりと隣の町へでも行くように出かける様子である。そして、現地でも、その土地の人と上手に距離感を持ちながら大部隊で出かけてはとても無理な場所へと行くことができたのだ。
山岳の訓練を充分に積み、単独登山に必要な資材をそろえて行くのだが、日本の川や山とのスケールの違いや、環境の違いに思い描くように進むことはできない。
それどころか、死んでも不思議ではない状況に追い込まれてしまう。
実際、テレビの企画で、初めてカヌーでツアンポ―川を下るという試みをして、一人の実力のあるカヌーイストが死んでいるのだ。
そのことを、彼は生き残った一人から状況を取材し、ルポ的に書き記している。
それは、日本のどんな河川でも経験または想像すらできない河川のスケールであったことを示す。
チベット探検といえば、ほんとうの仏教(仏典)を求めて一人でチベット人になり済まして入国した河口慧海を思い出す。
彼は、探検家としては素人であるけれども、周到な準備と強い意志の力を持って入国したのだが、ある意味においては共通することろがありはしないか。
空白五マイルとはいえ、その空白とは、欧米をはじめとした他国の者にとってということである。
シャングリ・ラと呼ばれる理想卿が人里離れたどこかにあるに違いないと、信じられており、そこには人がというか修行するものなどがいたのではないかという。
著者が見つけた空白の峡谷にある「洞窟」は、はたしてシャングリ・ラかどうかはわからぬけれど、地元の民が入っている可能性はある。
だからといって、他国から出かけて行った筆者の探検が色あせるものではない。
人を寄せ付けぬような厳しい峡谷に足跡を残し、記録し、生きて還ってきたことに意味がある。
(角幡唯介 集英社 2010年)
冒険心というのは誰にもあるのかどうかはよくわからないのだが、私には多少あるような気がする。
それは、子どもの頃から山里に住んでいて、大きなくくりの自治体もぐるりと山で囲まれている盆地であることから、「この山を(峠道)を越えるとどこに行くのだろう」そんなことを考えていた。
そして、小学生後半に比較的に自由に自転車に乗れるようになると、親の目を盗むように峠越えを敢行して、発覚するとしかられていた。
高校を卒業すると、原チャリに乗って、もっと大きな峠越えを試みるようになった。
自分の冒険というのは、せいぜいその程度のものなのだ。
けれど、そのための準備や恐ろしさというものは、冒険者と多少の共通点があるのではないかと思うのだが。
さて、この作者は大学時代探険部に入り、数々の未踏の地と思われるところへ探検に出ている。
そうした中で、チベット、世界最大の峡谷と言われているツアンポ―峡谷の踏破に挑む。
それも、幾多の探検家が挑んでなお未知の場所と言われている「空白の5マイル」に単独で挑むのである。
探検する際には、現地の状況や国際的な関係もあり、充分かつ念入りな調査を必要とすることを筆者は述べている。それは、大学の探検部時代に先輩などに教え鍛えられたもののようである。
それでいて、筆者は、単独でふらりと隣の町へでも行くように出かける様子である。そして、現地でも、その土地の人と上手に距離感を持ちながら大部隊で出かけてはとても無理な場所へと行くことができたのだ。
山岳の訓練を充分に積み、単独登山に必要な資材をそろえて行くのだが、日本の川や山とのスケールの違いや、環境の違いに思い描くように進むことはできない。
それどころか、死んでも不思議ではない状況に追い込まれてしまう。
実際、テレビの企画で、初めてカヌーでツアンポ―川を下るという試みをして、一人の実力のあるカヌーイストが死んでいるのだ。
そのことを、彼は生き残った一人から状況を取材し、ルポ的に書き記している。
それは、日本のどんな河川でも経験または想像すらできない河川のスケールであったことを示す。
チベット探検といえば、ほんとうの仏教(仏典)を求めて一人でチベット人になり済まして入国した河口慧海を思い出す。
彼は、探検家としては素人であるけれども、周到な準備と強い意志の力を持って入国したのだが、ある意味においては共通することろがありはしないか。
空白五マイルとはいえ、その空白とは、欧米をはじめとした他国の者にとってということである。
シャングリ・ラと呼ばれる理想卿が人里離れたどこかにあるに違いないと、信じられており、そこには人がというか修行するものなどがいたのではないかという。
著者が見つけた空白の峡谷にある「洞窟」は、はたしてシャングリ・ラかどうかはわからぬけれど、地元の民が入っている可能性はある。
だからといって、他国から出かけて行った筆者の探検が色あせるものではない。
人を寄せ付けぬような厳しい峡谷に足跡を残し、記録し、生きて還ってきたことに意味がある。
⑱ 川西町玉庭 朴沢の草木供養塔
さて、また川西町に戻り、玉庭の朴沢。
高国寺さまの境内地になっていると思われる、県道沿い道端の小高い場所に建っている。
坂道を登って奥の方に、立派なお寺の本堂が見える。
川西町では古いほうから4番目に数えられる。
しかし、凝灰岩でできているようで、その碑面の摩耗が激しく、ほとんど判読することができない。
手元にある写真集『草木塔』(山形大学出版会)によると、「草木供養塔」と中心にあり、その他、天保七年(1836年)とあったそうで、その他の月日や建立者は不明とある。
凝灰岩の加工石、所謂このあたりで切石などというのだけれど、川西町大舟 旧新蔵峠入口に建っているものに次いで2例目になる。
大舟は文化3年(1816年)に建立されており、それから20年後に建ったものなのだろうが、保存状態に大きな差が出てしまっている。
カメラをぐっと寄せて撮影してみると、かすかに「草 木 」と読めるような気がする。
この状態もいつまで保てるものやらわからない。
今のうちに、記録しておかなければ、いずれ判らなくなってしまうだろう。
川西町の玉庭の柴引(草木供養塔)、それから大舟(草木供養塔)、そして玉庭の高野沢(草木塔)ときて朴沢(草木供養塔)。
一連の流れと見るのは無理があるのかなぁ。
高国寺さまの境内地になっていると思われる、県道沿い道端の小高い場所に建っている。
坂道を登って奥の方に、立派なお寺の本堂が見える。
川西町では古いほうから4番目に数えられる。
しかし、凝灰岩でできているようで、その碑面の摩耗が激しく、ほとんど判読することができない。
手元にある写真集『草木塔』(山形大学出版会)によると、「草木供養塔」と中心にあり、その他、天保七年(1836年)とあったそうで、その他の月日や建立者は不明とある。
凝灰岩の加工石、所謂このあたりで切石などというのだけれど、川西町大舟 旧新蔵峠入口に建っているものに次いで2例目になる。
大舟は文化3年(1816年)に建立されており、それから20年後に建ったものなのだろうが、保存状態に大きな差が出てしまっている。
カメラをぐっと寄せて撮影してみると、かすかに「草 木 」と読めるような気がする。
この状態もいつまで保てるものやらわからない。
今のうちに、記録しておかなければ、いずれ判らなくなってしまうだろう。
川西町の玉庭の柴引(草木供養塔)、それから大舟(草木供養塔)、そして玉庭の高野沢(草木塔)ときて朴沢(草木供養塔)。
一連の流れと見るのは無理があるのかなぁ。
(92)『今日も森にいます。東京チェンソーズ』
「若者だけの林業会社、奮闘ドキュメント」というキャプションがついております。
(青木亮輔+徳間書店取材班 徳間書店 2011年4月11日)
いつかきっとこういった若者が出てくるのではないかなぁと思っていた。
じつは、地元米沢とか山形ならいいんだけどという感じで。
東京の奥の方で、東京の「秘境?!」とも言われている桧原村で林業に関わった著者が、同じ若者と林業を起業した。
その顛末と経過(現在進行中だから)をリポート。
昨年、著書『神去なあなあ日常』で、高校を卒業した若者が、いきなり世の中と隔絶されたかのような山林の中に放り込まれ、いろんな葛藤の中で林業を一年間続けてしまった若者などを描いた、作家 三浦しおん と、起業した青木亮輔の対談も掲載されている。
(青木亮輔+徳間書店取材班 徳間書店 2011年4月11日)
いつかきっとこういった若者が出てくるのではないかなぁと思っていた。
じつは、地元米沢とか山形ならいいんだけどという感じで。
東京の奥の方で、東京の「秘境?!」とも言われている桧原村で林業に関わった著者が、同じ若者と林業を起業した。
その顛末と経過(現在進行中だから)をリポート。
昨年、著書『神去なあなあ日常』で、高校を卒業した若者が、いきなり世の中と隔絶されたかのような山林の中に放り込まれ、いろんな葛藤の中で林業を一年間続けてしまった若者などを描いた、作家 三浦しおん と、起業した青木亮輔の対談も掲載されている。