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局地的

  • 局地的
7月下旬は夕立やにわか雨が多かった。
局地的な雨で、車で移動していると、こっちが晴れていても、小さな峠を越えると大雨なんていうこともある。

29日の夕方も、買い物に行ったスーパーから東の方を見ると、虹が出ている。

28日夜から29日朝にかけて、米沢で(もちろん田沢も)猛烈な雨が降った。
新潟県や福島県の会津地方では、たいへんな被害になっていた。
それほどではないものの、どこかに被害が出ないだろうかと、朝方の布団中でぼんやり思っていた。

幸いなことに、近くで災害というほどのことはなかったようで一安心していた。


ところが、近くにある管理をしている墓地のところへ行ってビックリ。
墓地東の小さな塔婆沢という沢が、通常は国道121号の下を潜って落ちてゆくのだけれど、道路わきに水がたまっていた。

朝は、水量を飲みきれないのだと考えていて楽観していたのが、道路まで水が上がってきたいたらしく、道路管理のパトロールをしていた業者さんが見つけて、急きょポンプで吸い上げて、近くの側溝に水を逃がす作業をしていた。

土砂や草などで浅くなっていた側溝を掘ったおかげで、なんとか溢れないで事なきを得たようだった。


最高の水位で、赤線のところまで上がったようなので、墓地も危険だった。
早く気がついてもらって、手を打っていただいて助かった。

今回の激しい雨では、こういった被害が身近にけっこうあるんだろうな。
2011.08.01:dentakuji:コメント(0):[なあまず日記]

(96)『履歴書代わりに』

  • (96)『履歴書代わりに』
吉村 昭 (河出書房新社 2011年)

今まで、単行本に未収録のエッセイ集。

著者の徹底した取材による、史実をもとにした作品は定評がある。
のだが、じつはまだ読んだことがなくて、エッセイしか読んだことがない。

いつかは…、と思うのだが、それはいつになるのやら。

このエッセイ集は、タイトルにあるように、自らの生い立ちや家族について、書いたものだ。
1927年(昭和2年)の生まれということで、子どもから学生の時代を第二次世界大戦前と戦中を過ごし、肺結核で死の一歩手前で当時としては難しい手術を受けて生き延びる。

この体験は著者にとって、その後の人生に大きな影響を与えていると感じられる。

それは「『保健同人』と私」で詳しく書いている。
聞いたこともない『保健同人』(『暮らしと健康』という雑誌の昔の題名らしい)についてのことである。
中学二年生の折りに肋膜炎に罹って以来、その後、結核菌に肺を蝕まれるようになり、終戦後の昭和二十二年にとうとう重症の肺結核患者になってしまった。
当時、有効な治療法もなく、ひたすら絶対安静にして自然治癒を待つほかない状態だった。
しかし、病状はさらに悪化し、死が近いことを意識することになる。

そこで、兄が持参した『保健同人』読み、肺結核の新治療法として外科手術が紹介されている記事を読む。
結局、その記事を読んだことから、当時ほとんど手術を受けることになり、命は助かった。

このことがなければ、その後の吉村作品はなかった(であろう)はずである。
著者個人としては、仕事上、なにもつながりのないこの雑誌に、このエッセイを書いて記しているというあたりに、著者の律儀さが表れているではないか。

 
2011.08.01:dentakuji:コメント(0):[お寺の本棚]

雨にあたる

  • 雨にあたる
ここへ行くと雨が降る、というようなジンクスがある場所の一つが、刈安の草木供養塔がある場所。

今まで3度行って3度とも雨に降られている。
28日にも、家を出る時には薄日が差していたのに、市内を通り抜けて、万世地区に入った途端に雲行きが怪しくなって、現場に到着したら大粒の雨が降り出してしまった^^;
草木供養塔と山の神様に参拝し、写真を撮って帰路についたら、市街地に向かうとお日様が出てきた。

たまたまというか、雨が降るようなときに行きたくなる場所と理解した方がよいのだろうか?

草木塔をあちこちと訪ね回るようになって数年。
今は、建立年代の古い順から、山形大学出版会から刊行されている写真集を参考にしながら歩いている(車で^^;)。
年代順だと、もう地域はあちらこちらと連なっていないことがよくわかる。
もちろん、資料を見れば一目瞭然なのだけれど、身をもって感じる。
ただし、場合によっては、昔の道筋などとの関連も見えてきたり、資料からは得られないこともいっぱいあるわけで、それでわざわざあえて年代順に拘っている。

まるで、ピンボールのボールのように飛ばされている感があって、それもまた面白い。
ただ、はなはだ不効率的ではある。

振り回されながら得るものがあるかどうか、どうであろうか。
今回も雨にあたりながら、ちょっと考えてしまった。
2011.07.31:dentakuji:コメント(0):[なあまず日記]

23 米沢市万世町刈安の草木供養塔

  • 23 米沢市万世町刈安の草木供養塔
玉庭から米沢市の万世と、まるで反対方向に同じ年に建立された草木供養塔がある。
米沢市内から国道13号線を栗子峠方面へ向かうと、右側に刈安集落が見えてくる。
この地は、昔の万世大路に繋がる交通の要所ではなかったかと想像できる。集落の米沢側のこんもりとした山があり、この頂上に山神が祀られている神社がある。



山の向こう側が米沢方面になる。
向かって右側の下が国道13号線で、ひっきりなしに車が通る音がしている。
逆側の向かって左側は、新しいルートの道路が建設中で、工事と工事車両の音が絶え間なく聞こえてくる。
その真ん中にあって、この場所は、まるで砦のように残っているのではないかという気がしてきた。

草木供養塔は、まさに神社の入り口、鳥居の足元のところにまったく目立たないで建っている。

1m足らずの自然石は、やや地面に埋もれがちで、草木供養塔の塔の字が見えにくい状態になっている。
草の上に「バン」という梵字が彫られているのが見える。
建立日などは肉眼で確認できない。
資料によると、弘化2年(1845年)八月八日、建立者は東原寺とあるらしい。
字体は玉庭の矢の沢のものとは違って、平易な書体のようだ。


草木供養塔の隣には、2倍もあるはるかに立派な湯殿山の塔があり、この左手には、「月山、湯殿山、羽黒山」と刻まれた珍しい石塔もある。


鳥居をくぐってこの山を直登する石段が、急角度で苔が雨で滑る状態におびえながら頂上の神社まで行った。
巨大な岩がご神体になっているようだ。

この場所は、この集落の人々の手によって、とてもきれいに手入れされている。
鎮守の森というか、何かを守ってくれる特別な場所のような感じがした。


はたして、もともとこの場所にあったものはよくわからないのだけれど、この地にあっても不思議ではないような気持になっている。

2011.07.30:dentakuji:コメント(0):[草木塔を歩く]

あいもかわらず

  • あいもかわらず
月に一度の、母のお供をして福島県立医大病院へ通院する日である。


朝食をとってから、同級生に通勤途中に家に寄ってもらい、昨夜置いてきた車をとりに行った。
なかなかいい段取りだったのだが、車に乗ろうとしたら、鍵がない(-。-;
恩師に車にわが家まで乗せていただいて鍵をとってまた引き返すという、間抜けなことに付き合っていただいた。
基本的には、子どもの頃とちっとも変っていないんだなぁ…。
ほんとにお世話になりました。


昼過ぎに出発するように準備をしていたら、朝の天気が嘘みたいに、激しい雨が降り出した。
このところ、こういう天気が続いている。

国道13号栗子峠を越えて、福島市に入るとやはり、激しい雨の痕跡があった。
同じようなお天気だったんだろう。

福島市内、県立病院とも、見たところは先月よりも車の数も多く、以前のように戻っているようにも感じられる。
病院の駐車場も満車で、外来の患者もかなり多くなっている。

それでも、原発事故の影響は、私たちが通りすがりで見ただけではわからないことがいっぱいあるに違いない。
新興住宅地の崩落は、復旧工事が始まっているものの、上部の家屋はまた新たに傾いているようにも見える。
続いている余震も怖いことだろう。

いつもの如く、14:30~15:00の予約で、検査と診察終了は17:00を過ぎる。
会計を終えて、病院を出るのは18:00.



母が言うには、茨城県などの近県からの患者さんがだいぶ増えて来ている(戻っている)らしい。
震災から4ヶ月半、病院内はようやく震災前に近い、通常の状態に戻ってきているようだ。
2011.07.30:dentakuji:コメント(0):[なあまず日記]