川西町上小松から、また大きく離れて米沢市の東のはずれの方にある梓山の奥にある草木塔。
万世の福祉の里の前を通り、さらに奥に進んだところに、昔からの集落があり、ここには元から住んでいた人よりも、新に住人になったり、別荘を建てている人の方が多い場所になっている。
個人的な感想になるが、なんとなく落ち着ける雰囲気を持つ土地なのかもしれない。
その道を進むと、梓山山の神社が鎮座している。
鳥居の先に、参篭所と思われる建物があり、石段の奥には大きな石宮の祠が祀られている。
鳥居をくぐった先に、その草木塔は鎮座している。
なんといっても、その高さは2mを越えるもので、碑面の「草木塔」という文字も非常に大きく力強く堂々と刻まれており、陽の雰囲気が漂っているように感じる。
江戸期に建立されたものとしては、おそらく最大だと思われる。
資料によると、嘉永7年(1854年)10月2日建立 一村中 とある。
凝灰岩の加工石とあるが、見た感じから今までの凝灰岩の墓石型とは全く異なっている。
よく言えばおおらか、別な言い方をすれば加工が雑なように思う。
万世には1841年に赤浜に建った「山の神 惣木供養塔」、1845年 刈安の「草木供養塔」 そして「草木塔」。
三基の碑文が、年代が近いにもかかわらず、まったく別というのはどういうことなのだろうか。
万世地区は、米沢市の西に位置する簗沢・三沢・綱木と並び、木流しが行われてきた地と聞いている。
双方の地に山仕事や木流しの交流があったものなのだろうか。
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市内観光
夏が戻ってきた^^
30℃超えした5日、北海道から長井の実家に来ている小学生の可愛いお客様達が田沢に「いらっしゃ~い」です。
小学校の頃の夏休みっていいなぁ。
黄金の時間ですなぁ(しみじみ…)^^;
昨日は海に行ってきたらしいので、市内でショッピングとかということに。
上杉神社近辺へ向かい、城址苑~伝国の杜~上杉神社~昼食~デパート~かき氷屋さん、という市内観光^^
神社の鳩さんたちに囲まれております。
鳩に餌をやっている女子高校生とか、大はしゃぎしている中学生なんかが多いのですね。
ショッピングと、(自分が行きたかった)「あらいや」さんのかき氷を食べて市内観光完了。
長井の義母とチビちゃんと一緒に帰って行きました。
今度いつ会えるかわからないけど、また遊びに来ておごやい~
30℃超えした5日、北海道から長井の実家に来ている小学生の可愛いお客様達が田沢に「いらっしゃ~い」です。
小学校の頃の夏休みっていいなぁ。
黄金の時間ですなぁ(しみじみ…)^^;
昨日は海に行ってきたらしいので、市内でショッピングとかということに。
上杉神社近辺へ向かい、城址苑~伝国の杜~上杉神社~昼食~デパート~かき氷屋さん、という市内観光^^
神社の鳩さんたちに囲まれております。
鳩に餌をやっている女子高校生とか、大はしゃぎしている中学生なんかが多いのですね。
ショッピングと、(自分が行きたかった)「あらいや」さんのかき氷を食べて市内観光完了。
長井の義母とチビちゃんと一緒に帰って行きました。
今度いつ会えるかわからないけど、また遊びに来ておごやい~
じゃがいも
夏が戻ってきたかな?という感じの8月4日。
昼は気温が上昇し、草むしりを1時間も続けていると汗が噴き出してくるのであります。
しかし、夕方になると風が涼しくなり、油断すると風邪をひきそうになるから気をつけなくちゃいけないですね。
ふと、畑から天元台方面をみると、雲が茜色に染まっていてなんとも美しいのでありました。
朝早くから、お盆を前に墓地の改修と新たな造立をなさる檀家さんがあり、ご供養のために出かけてきました。
早い時間なのに、お陽様がかなりきつく照らしていたのですが、その場所は木陰で助かりました。
昔からの共同墓地のため、宗派や菩提寺に関わらずお墓が建てられています。
また、土葬の時代からのものですから、その大きさとか配列がかなりまちまちなため、現代的な墓地作りという観点で言えば、そうとう無駄が多いように感じられます。
いつか、整理が必要になるのでしょうが、たいへんな事業になりそうです。
今は、個別にできるところからお願いをして、新たな墓地を建てることができる状態にあります。
今年最初のジャガイモ堀をしてみました。
まず一畝だけ。
なかなかいい感じで、ゴロゴロとイモが出てきました。
植え方の遅れ、五日間隔ぐらいで3段階に植えて、しかもサルに数度引っこ抜かれ、草はぼうぼう、大雨にたたられ……(--;
それでも、ちゃんとできてくれました(感激)。
さっそく、蒸かして、仏様にお供えして、いただきました。
美味がったですよ^^
昼は気温が上昇し、草むしりを1時間も続けていると汗が噴き出してくるのであります。
しかし、夕方になると風が涼しくなり、油断すると風邪をひきそうになるから気をつけなくちゃいけないですね。
ふと、畑から天元台方面をみると、雲が茜色に染まっていてなんとも美しいのでありました。
朝早くから、お盆を前に墓地の改修と新たな造立をなさる檀家さんがあり、ご供養のために出かけてきました。
早い時間なのに、お陽様がかなりきつく照らしていたのですが、その場所は木陰で助かりました。
昔からの共同墓地のため、宗派や菩提寺に関わらずお墓が建てられています。
また、土葬の時代からのものですから、その大きさとか配列がかなりまちまちなため、現代的な墓地作りという観点で言えば、そうとう無駄が多いように感じられます。
いつか、整理が必要になるのでしょうが、たいへんな事業になりそうです。
今は、個別にできるところからお願いをして、新たな墓地を建てることができる状態にあります。
今年最初のジャガイモ堀をしてみました。
まず一畝だけ。
なかなかいい感じで、ゴロゴロとイモが出てきました。
植え方の遅れ、五日間隔ぐらいで3段階に植えて、しかもサルに数度引っこ抜かれ、草はぼうぼう、大雨にたたられ……(--;
それでも、ちゃんとできてくれました(感激)。
さっそく、蒸かして、仏様にお供えして、いただきました。
美味がったですよ^^
25 川西町上小松諏訪の草木供養塔
玉庭の奥の温井から、小松の街中へ向かう。
小路に入って諏訪神社の鳥居の横側に並ぶ石塔群の中に建っておりました。
碑面には「草木供養塔」としっかり刻まれております。
ただし、供養の「養」という字は、文字を左右に配したような字(このPCで出てきませんーー;)。
資料によると、嘉永三年(1850年)三月十七日建立とある。
塩地平に建立されてから70年経過した頃。
今まで見てきた草木塔(草木供養塔)の中では、最も街中に近いところに建っているのかな。
昔の村の様子はわからないけど、現在地で言えばそういう感じ。
凝灰岩の加工石で、墓石型をしている。
これはたしか、
川西町大舟の旧新蔵峠沿いに建っている草木供養塔とそっくり。
表面の処理も似ている。
あちらは文化13年(1816年)だから、37年経過しているものの、当時の墓石はこういうものがスタンダードであったのだろうか。
元々はどこに建っていたものなのか。
この様子だと、石塔群はこの場所に集められて建てられた感じ。
それにしても、神社は寺院と違う清々しさと言ったらよいのでしょうか、こころが凛となるような心もちがいたいます。
なぜここに、街中に近いところに建てられたのでしょう。
小路に入って諏訪神社の鳥居の横側に並ぶ石塔群の中に建っておりました。
碑面には「草木供養塔」としっかり刻まれております。
ただし、供養の「養」という字は、文字を左右に配したような字(このPCで出てきませんーー;)。
資料によると、嘉永三年(1850年)三月十七日建立とある。
塩地平に建立されてから70年経過した頃。
今まで見てきた草木塔(草木供養塔)の中では、最も街中に近いところに建っているのかな。
昔の村の様子はわからないけど、現在地で言えばそういう感じ。
凝灰岩の加工石で、墓石型をしている。
これはたしか、
川西町大舟の旧新蔵峠沿いに建っている草木供養塔とそっくり。
表面の処理も似ている。
あちらは文化13年(1816年)だから、37年経過しているものの、当時の墓石はこういうものがスタンダードであったのだろうか。
元々はどこに建っていたものなのか。
この様子だと、石塔群はこの場所に集められて建てられた感じ。
それにしても、神社は寺院と違う清々しさと言ったらよいのでしょうか、こころが凛となるような心もちがいたいます。
なぜここに、街中に近いところに建てられたのでしょう。
24 川西町玉庭温井の草木塔
米沢市の万世から川西町玉庭へと戻る。
玉庭も上和合から権平峠へ向かう道を1.5kmほど入っていたところの道端に建っている。
ここから峠までの間には、かつて温井集落があったのだが、いまは、別荘らしき建物はあるものの、残念ながら住んでいる人がいない。
この先から沢沿いに入り、立岩山荘という施設を中心とした自然体験できる場所が造られている。
この権平峠を越えると、飯豊町の小屋集落でえある。
米沢市の田沢地区からだと、戸長里集落から ささ峠(通称)を越えて権平峠に向かうので、わが家からだとそう遠い感じはしない。
小山田信一先生などの報告にも会ったとおり、石塔は真中から折れてしまっているのを補修されて建っていた。
地域の有志の方によってなされたものと聞いている。
碑面には「草木塔」と、素朴な感じがする文字が彫られている。
資料によると、嘉永2年(1849年)8月9日 建立とある
80センチメートル足らずの小ぶりな石塔は、よく見ると三つに割れていたことがわかる。
おそらく、雪や除雪の影響によって壊れたものと思われる。
この場所に修復再建されたことで、散逸せずに残ることができるだろう。
この前の万世町刈安の草木供養塔と玉庭矢の沢の草木塔から4年である。
米沢市田沢地区、飯豊町小屋地区、そしてこの川西町玉庭地区の位置的に真中みたいな場所にあり、ここに建っていることは全く不思議なことではない。
住む人がいなくなり、かつて田んぼであった所も荒れ果ててしまっている。
しかし、この場所には、ここで山の仕事を生業にしていた多くの人たちの思いが残っているような気がする。
玉庭も上和合から権平峠へ向かう道を1.5kmほど入っていたところの道端に建っている。
ここから峠までの間には、かつて温井集落があったのだが、いまは、別荘らしき建物はあるものの、残念ながら住んでいる人がいない。
この先から沢沿いに入り、立岩山荘という施設を中心とした自然体験できる場所が造られている。
この権平峠を越えると、飯豊町の小屋集落でえある。
米沢市の田沢地区からだと、戸長里集落から ささ峠(通称)を越えて権平峠に向かうので、わが家からだとそう遠い感じはしない。
小山田信一先生などの報告にも会ったとおり、石塔は真中から折れてしまっているのを補修されて建っていた。
地域の有志の方によってなされたものと聞いている。
碑面には「草木塔」と、素朴な感じがする文字が彫られている。
資料によると、嘉永2年(1849年)8月9日 建立とある
80センチメートル足らずの小ぶりな石塔は、よく見ると三つに割れていたことがわかる。
おそらく、雪や除雪の影響によって壊れたものと思われる。
この場所に修復再建されたことで、散逸せずに残ることができるだろう。
この前の万世町刈安の草木供養塔と玉庭矢の沢の草木塔から4年である。
米沢市田沢地区、飯豊町小屋地区、そしてこの川西町玉庭地区の位置的に真中みたいな場所にあり、ここに建っていることは全く不思議なことではない。
住む人がいなくなり、かつて田んぼであった所も荒れ果ててしまっている。
しかし、この場所には、ここで山の仕事を生業にしていた多くの人たちの思いが残っているような気がする。