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(179)『無手の法悦』

  • (179)『無手の法悦』
増補版

大石順教:著 (春秋社  1971年6月発行)
2012.10.23:dentakuji:コメント(0):[お寺の本棚]

沢内で

  • 沢内で
沢内の「草木供養経」という塔を読み解くカギになるのは、一つは水であるようです。

山間の村でありながら、米作ができる平地部分も多く、その水の確保と山との関わりがあり、山を守るということが水を守ることだという明確な意図を感じました。

そして、説明いただいた高橋先生は、この草木塔を建てた人の末裔にあたるという事実が判っており、先祖はどのような動きをしていたかが伝わっている。その中で、草木塔建立につながると思われるのは、あちらこちらに出かけては樹木の苗などを集めてくる人であったということ。

沢内は秋田県の横手地方の商圏であり、その秋田への道は山形県の庄内地方との交流の道であることから、山形街道という言い方もあるというのだ。
そうすると、出羽三山参りなども行われているようであり、「湯殿山」の石塔も数多く建っているということ。
残念ながら、今回その石塔は発見できなかったのだが、山形との文化的な交流が十分ありえたというお話は、草木塔建立の由来を考えるときに大きなヒントである。




もう一人の高橋さんの案内で、「深沢昂雄記念館」を訪ねた。
現在の沢内病院に正対する形で建っている、こじんまりとした建物である。
昔、看護婦さんの寮だったところを改築して記念館にしたとのこと。

深沢氏とは、昭和30年代にこの沢内村の村長さんであった、名物村長さんであった。
私は残念ながらその方のことを全く知らなかった。

「雪・病気・貧困」の三重苦にあえぐ寒村にあって、その当時医者にかかることができずに亡くなってしまう乳幼児の多さを克服し、冬季間行きに生まれる村の除雪とバスの運行を実現するなどの大きな功績を残された人であった。
予防医療に力を入れて、乳幼児死亡ゼロを達成、60歳以上の医療費負担ゼロなどを実現していたのだ。

そのこじんまりとした記念館に、私たちが行った時には久慈市から団体のバスで見学に来ており、その後は福島県のどこかの自治体の議員さんたちが視察で見えられた。この日、議員さんの視察は2組目だとのこと。

名物村長さんは、昭和30年代後半に病魔に倒れ亡くなられた。
その人の行動と功績は、多くの人の心を動かしているのだ。




二人の高橋さんには、たいへん多くのご教示をいただいた。
予定の午後4時が過ぎ、夕刻が迫り、お二人にお別れして遠野市へ向かった。
本来ならば、この近辺にたくさんある温泉に宿をとりたいところであるのだけれど、今回はもう一つの目的がある。
後ろ髪を引かれる想いで出発。

約2時間かけて、車を小雨が降り出した夜路を走らせ、遠野の宿に到着。
遠野では、草木塔の調査と、草木塔の会結成に関わって、お世話になった人に会うことになっているのだ。
昨年、縁あって山形から遠野市へ移住してきているので、じつに久しぶりにその人に会うことをみんな楽しみにしてきたのだ。

遠野は濁酒特区第1号の街である。
まずはそれをゆっくりといただきながら、その人を待つ。
2012.10.22:dentakuji:コメント(0):[なあまず日記]

草木塔の心を求めて沢内へ

  • 草木塔の心を求めて沢内へ
17日・18日と、岩手県の西和賀町と遠野市を中心に「おいたま草木塔の会」役員で研修に行ってきた。

山形県以外にある、江戸時代に建立された草木塔は二つ。
そのうち一つは旧熱塩加納村(喜多方市)にあり、もう一つは岩手県の旧沢内村(西和賀町沢内)にある。

熱塩は大峠を越して間もなくという位置関係にあり、ある程度の関連性を見いだすことができるのであるが、岩手県の最も南に位置する山深い村とはいえ、その距離の遠さと歴史的に行き来のある地域でもないことから、なぜそこに建っているのかということについて、見学し地元の詳しい方からお話をお聞きしようというのが、大きな目的の一つである。
参加者は8人。

お天気に恵まれ、少し汗ばむようなお天気になった。




山形自動車道から東北道を通り、秋田道に入って沢内へ。
休憩しながら、やく4時間で到着してしまった。
山形県内を縦貫して秋田から行った方が時間がかかるなんて、なんだかなぁという思いがするのだが、しかたがない。

案内して下さる方と、沢内のドライブイン「およね」で待ち合わせ。
沢内村は美しい村だ。けれど、雪深く寒さが厳しく、四方を山に閉ざされ、昔は「雪、病気、貧乏」の三重苦に悩まされていた寒村であったとか。
その時代、「およね」さんという娘が人身御供のようになって村を救ったと言われている、そんな名前がつけられているお蕎麦の店である。




説明と案内をしてくださったのは、元の沢内村村長で沢内の歴史を研究なさっている高橋さんと、西和賀町の生涯学習課の職員で自信も地域の御神楽の伝承などに積極的に参加なさっている高橋さん。
七十代後半になっておられる高橋さんからは、草木塔にとどまらず沢内村全体の歴史に関わって、草木塔というものが建てられて背景という部分が見えてくるようであった。
現役職員の高橋さんからは、沢内は草木塔よりも、もっと伝えたいものがいっぱいあるという心意気が伝わってきた。

なるほど、草木塔は沢内の歴史や民俗の一部でしかない。
どうして沢内村に草木塔が建てられたのかを知ろうと思ったら、この村のことを知らなければならないのは、当たり前のことであった。

2012.10.21:dentakuji:コメント(0):[なあまず日記]

秋晴れの空のもとで

  • 秋晴れの空のもとで
火曜日、16日は小学校の地域の学習の時間。
コミセンと小学校の共催で授業を行っていて、今年度は草木塔だけではなく、地域の歴史と民俗を学習できるようなところを訪ねながらお話をさせていただいた。

最初は塩地平の草木塔へ行き、そこから大荒沢不動堂 ~ 上の町の愛宕神社 ~ 潜清水、と移動し四ヶ所を回った。

お天気に恵まれて、予定通り。
暖かいため、蜂がブンブンと騒いでおり、ちょっと危険な場所があったものの、殺虫用スプレーを持参し用心したおかげで事なきを得た。

今頃の季節は気をつけなければいけないものだ。




授業を終えてから直ちにお寺に戻り、そのまま、隣の地区の墓地へ行き、ご供養をさせていただいた。


現在埋葬されているお墓から、酒田の墓地へ改葬されるため、そのご供養であった。
早く夫を亡くされた奥さまが先日亡くなられ、その後を託す人がいなくなったため、話し合いの上で、夫の実家があるそちらのご親族のお墓へ行くことになったのである。

両家が円満に話し合われたので、終始、穏やかに和やかなご供養となった。

こちらもお天気に恵まれ、無事に終えることができた。

彼の地で安らかにご供養なされますように 合掌。
2012.10.20:dentakuji:コメント(0):[なあまず日記]

できた

  • できた
畑から掘った芋を、芋煮会で使う分だけざっと洗っておく。
あとは当日、皮をむいて大きいイモは二つに切って、という手順でよい。

芋煮会の場所は、河原ではなく、地蔵園で行う。
地蔵園というのは、愛宕・葉山神社への登り口にあるお宮とそのあたりの一帯のことを言うらしいのだけれど、そこに広場があり、米沢の西から南に住んでいる人は、以前からここでイモ煮会を良くしていたものだ。

最近は芋煮会とい言えば河川敷(河原)が当たり前のようになっている。
ある民俗の研究者によると、米沢が芋煮会の発祥の地で、それは山でしたものだ、という話しを聞いたことがある。
私には裏付けがよくわからないのだけれど、そこから眺める景色とかを思うと、判らないではない。

ということで、来週、神社の宮司さんの許可をいただいて、地蔵園ですることになった。




我が超ミニ水田の稲刈りを行った(^^
わずか数分で終了。
小粒ながらちゃんと米になっており、なんとカメムシが何匹もくっついていた。

ほんとに二束(笑)
これでどのぐらいの米の量が出るものだろう。

玄関先で乾かしている。




ベビーサークルを自作してみた。
市販品は高価で、なんだかもう一つピンと来ないので、ネットで自作した人の真似をして、紙管とジョイントと動物除けのネットを使って作ってみた。
まだ、ハイハイできない今の状態だと強度的には、大丈夫そう。
そのうちに、網の部分は結束バンドなどでとめるというような補強が必要になるのではないかと思っている。

娘は今のところ違和感なく入っているところである。
この後の経過はまたあとで。
2012.10.17:dentakuji:コメント(0):[なあまず日記]