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屋敷の神さま

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11月28日(木) 雨が降ったりやんだり、たまに陽が射したり 時雨模様?

昨日の晴れっぷりから、ころっとお天気が変わりました。

天気予報どおりでしたね。

さて、この日は米沢市内の屋敷神さまのお祭りが2件あって、ご祈祷をさせていただきました。

 

屋敷の神様って何? と、よく尋ねられます。

米沢近辺では、家の屋敷内の一角に稲荷大明神や弁財天などの神様が、石宮や小さな木のお堂などに祀られ、縁日を定めて、おうちの方がお参りをされ、(多くは)一年に一度、法印や神主さんを招いてお祭りのご祈祷を行います。

時代によって、流行というとおかしいかもしれませんが、神様をこぞっておまつりするということもあったかもしれません。

米沢の場合、昔からある屋敷内には必ずと言っていいほど、神様のお社が見受けられます。

今でも、新しい家になって移動したりしながらも、赤い布を掛けてお供え物をあげたりされて、この辺で言うところの「無沙汰にしない」というようになっています。

屋敷の土地は、武家屋敷であれば与えられたり、或いは求めて土地はその人の所有になるわけです。けれども、その人の(或いはその家)のものと言っても、これはあくまでも人間が決めているだけのこと。

 

もともとは誰のものでもなく、自然や神様からお借りしているものだ、そんな意識をもって大事にするという意味であろうと思います。

そう思っていれば、健康で安泰に暮らすことができていることに感謝する気持ちが湧いてくるのではないでしょうか。

もう少し俗っい考え方としては、所有地の角や境界に神様を祀ることで、所有権を主張している、そんなふうにもみえますね。そういう側面もあったかもしれません。

というわけで、それほど荒れたお天気にならず、お勤めをさせていただきました。

 

お昼過ぎ、帰りの途中に館山公園の展望台に登ってみました。

画像は下の展望台。

一番上の展望台からは、米沢の市街地はもちろん、南部から東部一帯、高畠町から南陽市まで望めます。

ここから眺めると、陽が射しているところ、曇ってるところ、雨が降っていそうなとこ、一目瞭然です。

 

午後からはみぞれ。

田沢のわが家でははっきりわかりました(画像ではよくわからないですね)。

夜は、少し雪になりました。

 

 

29日(金) 晴れ。

雪が積もっていないかと恐る恐るのぞいたら、車の屋根が少しだけ白くなっているだけで、ホッと一安心。

娘を車に乗せて小松へ。

小松駅の東口に、イルミネーションが点いて、「ぴかぴか ぴかぴーか」と言って喜んでいました。

 

この日、わがブログ開設以来、初めてっていうぐらいの訪問者あり。

といっても、2000ぐらいなんですが(^^;

今売れている本の話題のせいだったのでしょう。

いつも100台ですからね~、ビックリしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

2013.12.05:dentakuji:コメント(0):[なあまず日記]

張り替え完了

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11月25日(月)・26日(火)

小雨が降ったりやんだりのお天気。

お天気雨みたいな降り方をしたりするのは、今頃の季節らしいのかもしれない。

 

檀家さんの法事を終えてから、以前から気にかかっていた。ビニールハウス車庫(小屋)の補修に取りかかる。

前面の扉の部分をやり残していたら、どんどん破れて行ってしまって、もう扉はあってもなくてもいいみたいな状態になってしまっていた。

とりあえず撤去を終えた。

 

27日(水) 晴れ。

外仕事をするには絶好なのだ、けれども、こんな日は出かけたくなるし「まだ大丈夫だべぇ」と思ってしまう。いかんいかん。

用足しにだけ出て家に戻る(つもり)で出かける。

天元台がスカッと見える快晴、だけれども山並みをよく見ると尾根の所に雲が押してきている。じきにお天気は変わるんだろう。

 

というわけで、ビニール張り替え作業完了。

これで、今年の冬はひとまず安心だ。

 

 

 

2013.12.04:dentakuji:コメント(0):[なあまず日記]

249 『9条どうでしょう』

  • 249 『9条どうでしょう』

内田 樹、小田嶋隆、平川克美、町山智浩 (ちくま文庫  2012年10月10日発行)

 

 

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希

 求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、

 国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保

 持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

 

まずは、この条文を味わってみなければならないだろう。

そして、太平洋戦争後、65年以上この国において、戦火を交えることはなかったことも忘れてはいけないし、今後、私たちの子どもたちにも、戦禍を味あわせたくはないのである。

ただ、自らの護身法として自衛隊を持つのは、ぎりぎりのラインではなかろうか。

 

右とか左とかということでもなく、人の命を奪う戦いをしない、という誓いを立てるのは、けして腰抜けとか弱腰というものではないと思うのだ。

 

2013.12.03:dentakuji:コメント(0):[お寺の本棚]

町内で、家で

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11月23日(土) 勤労感謝の日

 

町内の神社に懸ける注連縄ない(注連縄作り)が公民館で、行われた。

お寺の前に建っている明神様とやや離れた所に建っている山の神様の鳥居に掛けられる。

各戸から一人ずつ出てなので、約50人での作業である。

 

 

この注連縄づくりは、数年前、昔から続けられていた方法と時期が変更になった。

 

まず、時期。

以前は暮れの二十八日に、曜日にかかわらず行っていた。

それが、十年ほど前から12月下旬の日曜日になって、数年前から勤労感謝の日に改められた。

 

会場は、私が子どもの頃、お寺でしていたものだった。

それから、農家の方の作業小屋で行われるようになった。これはたぶん、梁に注連縄をかけながら作業できるし、後片付けも楽だったからだろうと思う。

 

そして、もう一点は、注連縄自体の形状が変更され、作業方法も変わった。

これは、ちょっと気にかかる所ではある。

神社のしめ縄の伝承は、その地域の文化であろうと思うからなのだ。

以前は、二本の元末のある〆を作り、それを中央で結ぶ方法であったのだが、画像のようになった。

予め綱を三本作ってきてそれを撚って締めて行く。

確かに作業も早く終えて楽なのではあるけれど、これまで伝わって来た〆縄の方法はこれで途絶えることになるだろうと思う。

この神社の由来については私は詳しくなく、そのしめ縄の系統について説明することができないので残念である。

これはちゃんと調べておかなければならない。

やはり、楽な方へ流れてしまうのであろうと思う。

実際、楽だものなぁ。

 

 

1時間足らずで注連縄づくり作業を終え、お寺の周囲の片付けを行う。

穏やかな午後である。

じきに日が陰ってゆき、木の影も私の影もどんどんと長~く伸びてゆく。

 

 

裏山の林辺には、枯れて茶色くなったウバユリがいくつも経っており、その花の中をのぞくと小銭のような薄い種が無数に入っている。

風が吹くと、周囲に蒔き散らかされるのだ。

 

こんな調子で作業をしてなかなか進まぬ。

午後4時半を過ぎると、御日様は山陰に入ってしまい暗くなる。

あと一ヶ月、まだ陽が短くなるのだ。

 

 

翌24日(日) 晴れたり曇ったり。

またまた町内の作業で、早朝から川掃除。

午前6時はさすがにまだ暗い。

しかも寝坊をしてしまい、5分遅れで作業に合流。

木の葉が水路にたまっており、それをすくったり持ちあげしたりして、冬の水上がりがないようにするのだ。

毎年恒例で、山里に住む者にとっては必須の作業である。

 

夕刻、相方と戻ってきた娘はじいさんと遊んでいる(遊んであげてる?!)。

この前保育園で作ってきた、ドングリのキャップのような帽子を気に入ってかぶっているようだ。

そのまんまドングリみたいで可笑しい。

11月下旬になってようやく檀務も落ち着き、家のことができるようになってきた。

だんだんと気がもめてくる頃ですね。

 

 

 

 

 

 

2013.12.02:dentakuji:コメント(0):[なあまず日記]

39番目 高畠町上和田土合の草木塔

  • 39番目 高畠町上和田土合の草木塔

上和田の草木塔の二つ目は、38番目の太田釣堀さんの側からそれほど遠くない、井上さんという方が所有されているブドウ畑のの一角にひっそりと建っていました。

 

凝灰岩でできているようで、おそらく高畠石だと思われます。

草木塔の「草」の字は「くさかんむり」だけで読ませる字体です。

私の撮った写真ではあまりできが良くなくて、見えにくいのですが、実際はもうちょっと解りやすいようです。

このときは、草木塔の会の団体での見学でしたので、じっくり撮ることができなかったもので・・・と言い訳をして、また時間を作ってちゃんと撮り直してみたいものです。

 

さて、資料によると、建立年月日は、明治9年(1876年)8月8日。

上和田のもう一つの塔と全く同じです。

この塔には台座があり、建立者名が刻まれているそうです。

金子仁三郎 金子又右エ門 金子徳右エ門

左側に 入会村 石工 我妻喜惣兵  と、あるそうですが、全く確認できませんでした。

 

前回も書きましたが、窪田村の入会山がある4ヶ所に建てたとすれば、それがこの一つなのかもしれません。

となると、もう一つのものが建立日が同じということから、趣旨は同じというかのせいも考えられます。

けれど、同じ趣旨で同じ日に建立ということなら、石塔も同じような字体であったり意匠であるような気もしますが、果たしてどうなのでしょうね。

 

この石塔がある所には、その他にもいくつかの石塔が立っていたり転がっていたりしていました。

雪に押されたりしてそうなったのでしょう。

その一つが、道の分岐点を表す石だと、この日の参加者の一人がみつけました。

この石塔が立っている場所の脇には小路が残っており、昔の街道だったと言う説があり、興味深いものでした。

 

井上さんの先代の方が、この畑周辺にあった石塔をここに寄せたともいわれているそうですが、詳しい由来は、また次の機会にお聴きしたいと思います。

2013.12.01:dentakuji:コメント(0):[草木塔を歩く]