5月17日(日) 晴れ 午前中、昼前から強い風ながら気温上昇
早起きしてご法事の準備。
まずは、米沢市内のお宅へ伺ってご供養、7時から。
帰宅して、10時からのご法事に出かける前に、戒名を考える。
というのは、明日、東京からお寺にいらしてご葬儀をなされる方がある。
事情があって、1月に亡くなられた方はお一人で暮らしていらして、火葬のみ終えられていた。
その後、ご遺族でこちらに来て葬儀を行い埋葬するということになったのです。
なにしろ、だいぶ前に一度お会いしたぐらいの方で、送っていただいたプロフィールや、ご兄妹と電話で話した時にお聞きしたエピソードを基に考えるというわけで、なかなかこれ!という文字や言葉が出てこないのです。
市内へ10時からのご法事に出かけ、また11時からのお寺でのご法事に戻って来る。
またも、10分ほど遅れてしまったものの、なんとか3座目を終えることができた。
小野川温泉の高砂屋さんで食事をいただき、送り迎えをしていただいたので、お酒も少々ごちそうになってしまった。
午後はしばし休憩(っていうか昼寝になってしまった)。。。
夕刻から、また明日の準備を開始。
町内の運動会の選手選考の会合があるのだけれど、申し訳けないが欠席させてもらった。。。
5月18日(月) 晴れ 気温上昇 夕刻になって曇り
早起きして、ようやく、これ!という言葉と文字を掴むことができた。
いやはや、難産だった。。。
6時頃から、久しぶりに朝の散歩に出かけた。
今日は、大舟方面へ向かって、逆沢の溜め池(養鯉場)までの片道1.2kmほど。
ちょうど牧場付近で戻ろうと思ったら、向こう側から私よりちょっと先輩の姉妹があるいて来て、「おはようございます!」のあいさつを交わしたら、もう少し行かなけりゃいけないような気になって、池の堤防まで行ってしまった。
お二人は、朝や夕方いつも家族などとウォーキングしている。
私も見習わなくちゃ。
帰宅して掃除などの準備を行い、10時30分からご遺族ご親族がお集まりになって、葬儀を執り行った。
その後、お墓に納骨なさるということ。
息子さんや妹さん達に、なんとなく落ち着いた、と言っていただきよかったと思う。
無事に、故郷のお墓に埋葬なされました。
合掌
午後からは米沢の法務局へ。
近年ずっと行ってなかったので、先ず場所が別になったことと、なかなか素敵な建物になっていたのには驚いた。
墓地に関する件で調べ物をして、いろいろ解って助かった。
役所もこんなふうな施設になってきたんだなと感心した。
5月19日(火) 小雨のち曇り やがて晴れ
家屋の雪害があるため、工務店さんが見積もりにきてくれた。
今年は、建物の西と北の取り付けの所の屋根が痛んだ。
12月最初の大雪が相当たまって、落下したりしたため、軒だけでなく屋根の構造材まで一部やられてしまっているようだ。
急勾配の屋根と、取り付け部分の関係で雪が溜まりやすいのだ。
将来は、これを解消しないと大変だと思う。
娘を保育園に送るのだが・・・、三日ほど休んだので、登園を嫌がりやっとこさ連れてった。
一旦戻って、米沢市内東部へ屋敷神様のお祭のお勤めへ行く。
この日の午後からは「田沢地区の蒼空地区委員会 50回記念行事」というのがあり、ご案内いただいた。申し訳ないが欠席。
「蒼空地区委員会」とは、田沢地区の名物行事となっているもの。
昭和41年に、国道121号線大峠道路の早期改修の要望活動として、地元代議士さんや県議さん、行政関係者を招いて、当時まだあった三沢西部小学校八谷分校で開催されたのが始まり。
屋外で、地元の山菜料理を食べながら、懇談するというもので、地区委員さんや集落の方々などで、現在のようなおおがかりなものでなく、それほど多くない人数でスタートした。
その後、場所を変えつつ、基本的には入田沢地区の野外で山菜が旬の五月下旬あたりに継続してきた。
年々人数が増え、山菜採りからお料理まで、地元の方々などが、幅広く協力をしながら実施し続けてきたもの。
それで、道路だけではなく、地区の問題点などの各種要望をする場にもなって行った。
たいへん良い空気の中で、山菜料理に舌鼓を打ちながら懇談するということで、外侮からのお客様には喜んで来ていただいたようである。
自分も、平成3年から約20年間関わりつづけた。
道路開通前の数年間は、大峠トンネルの福島側の大桧沢橋の上で開催だった。私も、平成3年と4年に、まだ暗いトンネルの中を、特別の許可を得てマイクロバスや鍋釜を積んだトラックで、約20キロ近い道を走って行った。
平成4年に開通後は、場所を公民館の野外などに移して、基本的には要望と懇談の場として、その後25年ほど続いてきたわけだ。
屋敷神様のお祭りから戻ると、ちょうど福島に棲む友人がわが家に到着した。
大学時代の同級生で、浪江町の大きな寺の住職。
浪江は、震災と原発事故の被害を受けて、全町内居住できない区域になっており、現在は福島市内に仮住まいをしてお寺の活動も続けている。
会うのは2年ぶりぐらいになるだろうか。
ともかく元気ではあるものの、先行きの見通しが立たないことが、やはり問題であろうと思う。
彼の父親である先代の住職は、私たちが学生時代の頃(約30年前)から、原発の危険性についてしっかりとした意見を持っておられた。しかし、浪江を含む近隣町村には多くのお金がばらまかれ、関連して大きな雇用を生むものでもあることから、彼の父親のようなそうしたことを危惧する意見に対しては蓋がされてきたようなものだったと思う。
今こうなってみて、多くの町民が方々に四散してしまい、帰ることができる見込みすら立たないときに、初めて彼の父親の危惧が本当に正しかったと言えるのだが、無念なことだ。
彼の子どもは二人とも学生となり、都会で暮らし、夫婦2人暮らしをしているとのこと。
「愚痴聞かせてわるかったな。また、そのうち!」ということで帰って行った。
さて、蒼空地区委員会記念祝賀行事は、吉村知事もお出でになり、盛会裏に終えたようでなによりであった。
翌日、当日の記念のパンフと記念品が各戸に届いた。
で、パンフを見て、ちょっとがっかり。
というより、ざんねんな感じ。
表紙が大峠トンネルで、中身はその開通に関することだけだったからだ。
それは大きな成果であることは間違いないのだが、それから23年もたっているし、蒼空地区委員会の成果はもっともっと他にもあるのになぁと思える。
とにかく、50回(一年に2回したことがあったので50回とのこと)。
自分が関わってきた後半の二十数回について、お風呂に入って寝るまでに少し思い出してみた。
あんな人、こんな人、いろんな人との出会いがあったけなぁと懐かしく感じた。
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