食で分断される日本人
速見健朗:著 (朝日新書 2013年12月30日発行)
左翼とか右翼というと、いささか穏やかでない感があります。
あえて、食ということを通して、政治思想というものを考えてみようという試みなのか、或いは政治を通して食を考えてみようというものなのだろうか、そんなことを思いつつこの本を手にしました。
ここで著者が言う、フード左翼とフード右翼という分け方は大まかには次のようになる。
自然食 メガフード
ベジタリアン ジロリアン
有機野菜 遺伝子組み換え作物
ビーガン 牛丼つゆだく
スローフード運動 ファストフード
ミネラルウォーター 水道水
地産地消 B級グルメ
マクロビオテック ジャンクフード
ファーマーズマーケット コンビニ
というような対比で、まぁよくわからない所もありますけれども、おおよそのイメージを持つことはできるようです。
政治思想的な左翼右翼ということでは、前者は革新的なものの考え方であり、後者は保守的な、と言えばよいのでしょうか。細部にわたれば、それほど単純なことではないかもしれませんけれども、私が持つ左右ということのイメージはそんな感じ。
では、この食というものを上で見たような対比で考えると、必ずしも、私がイメージする右左とはちょっと違うのではないかとも感じられます。
なぜなら、例えばファストフードというのは、ある意味においては、技術や流通の革新の産物だと考えるからです。国際的な原材料調達と流通形態、大量に安く製造し販売するというのは、昔はありえなかったこと。逆に、スローフードや地産地消は昔はそれが当たり前だったことで、そこに帰って行くというカタチはむしろ旧守的とも思われます。
その点については、著者も述べており、その時代によって革新とは変わって行くものだということなのかもしれない。行きすぎると、また逆の方に戻るというような揺らぎが、食に関してだけではなく政治やその他の分野でもありうることなのでしょう。
私の食について言えば、ファストフードあり、地元の食材あり、自然食ありというように、なんでも食す。ある意味では無節操であり、別の見方から言えば偏りがないという表現もある。
外国で生産され輸入されるものが、たいへんずさんな管理なものだというニュースを聞けばやはり良い気分がしなくて、原材料の産出国を確認して購入などということもする。遺伝子組み換えした食品が危ないと聞けば、それを表示で確かめる(危険ではないとこの著書では言っている)。
しかし、コンビニで何の表示もされていない、鶏から揚げなどを平気で購入して食べたりもする。
実際のところ、食物自給率が(ものにもよりますが)低い状態の中で、本来ならば無関心ではいられないこと。右と左を行き来しながら、私たちが口にして安全な物とは何か、ということに関心を持たなければならないのだと、この本を読んで改めて感じた。
フード左翼的な食は、必ずしも日本の食の将来を開くものとは言い切れないということも読みとれる。
狭い国土で高い生産量を上がるために、自然農法からは離れてきたわけである。それに食料の値段が高くなって庶民に手が出ないものになってしまう(あるいはそうなっている)のはおかしなことでありましょう。
食に関心を持つことは、社会や政治にも関心を持つことになる、のかもしれぬ。
というより、私のような食いしん坊には、食が入り口だと関心が高まる、ということでしょうかね。
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