さて、私の地元 田沢に戻ります。
田沢地区は、米沢市街地の方から、ほぼ国道121号線と小樽川に沿うように長い地区で、大字口田沢・大字神原・大字入田沢となっている。
田澤寺のある下の町から草木塔のある上中原までが口田沢。
その先から神原になる。
上中原の草木塔は田沢地区に現存する江戸時代に建てられた10基の草木塔の中で最も年代が新しい。
慶応元年(1865年)七月二十日と刻まれている。
石塔の中央には「草木塔」と今までの草木塔にはないような大きな文字で、崩した感じの字体である。
なんという字体なのだろう。
その左側には建立者と思われる「三田沢講中」とある。
三田沢とは、当時の口田沢村・神原村・入田沢村のことと考えて間違いないだろう。
自然石で大きさも160㎝と堂々としている。
国道沿いに建っており、とても目立って見つけやすい場所である。
草木塔研究の先達である藤巻光司氏によると、道路改修で数メートル移動しているが、昔とほとんど変わっていないとのこと。
この一角には草木塔以外にも、通称「三老(翁)の碑」と湯殿山塔、右には「蚕神塔」「伊藤氏生碑」などが建っている。
さらに、推定樹齢200年ともいわれている松の木が三本。
これを「三老(翁)の松」と田沢の人達は呼んでいる。
田沢の三老とは、幕末から明治に移行する当時の三田沢の代表にあたる人。元米沢藩の山林が売りに出されそうになった時に、自らお金を出し、また地区民に呼びかけお金を集めて山を買い、その後の田沢のために役立てようとし、じっさいそのようになったため、顕彰されたとのこと。
その後、昭和初期に購入した山を基本財産とし、教育支援を目的とした公益法人が設立され現在に至っている(現在は一般財団法人)。
また、「蚕神塔」は、この周辺地域がかつて養蚕が盛んであったらしく、毎年5月20日頃にこの紙漉集落でお祭りお行い、田澤寺の代々の法印が呼ばれ供養を行っていた。
その時に、草木塔の前でも供養祭を行い、御札が各戸ならびに関係者に配られていた。
田沢で、どういう形であれ草木塔に人々が集まり供養するという例は他にない。
10年ほど前から、地域での維持が難しくなったこと、養蚕が途絶えて久しいことから、祭主が地域から財団法人「田沢自彊会」に移行され、6月に草木塔供養祭を行っている。
この草木塔の特徴である書体、それと三田沢講中という建立者から、その由来が何らかの文書にあるのではないかと想像し、気長に探しているところである。
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