岩手県から置賜に戻り、川西町大舟へ。
我が家から、車で10分もあればついてしまう。
かつては、最短コースの螻尾峠を越えるのが最も一般的であったろう。
今は、車一台がやっと通れる曲折路なので、東沢を廻って行く方がはるかに楽である。
田沢と大舟は、米沢と川西という違いはあるものの、生活圏としてはかなり近い関係にあったようだ。
山で隣接しているのだから近いのは当たり前だけれども、その山に入って生活していたその昔は、よりその関わりがあったものと考えてよい。
小学校も、昭和一桁生まれの私の父親の時代あたりまでは、大舟から田沢の小学校に通った人もいたとのこと。
また、当田澤寺にも大舟からお参りに来る方々が少なくなかったらしい。
毎回訪問する時間がまずくて、石塔の字がよく画像に写らない(ー_-;
石塔や石仏の多くは、概ね南や東を向いて建てられるものだから、陽が当たる午前中に訪ねればよいのに…。
さて、碑面の正面真ん中には「草木供養塔」と細いきちっとした字体で書かれ刻まれているのだが、草という字の「日」の部分が立て棒が通してある文字になっている。
この字は川西町の草木塔で最も古い玉庭柴引の字と同じ。
ただし「供養」の養が、こちらは?である。
字の傾向はちょっと似ている。
建立年月日は元治元年(1864年)8月吉日と、正面に刻まれている。
台座に文字が刻まれているのは判る。
資料によると、 「施主 柳沢弥七 上組 中」とある。
個人名が記されている。
田沢の草木塔には個人名がなく、一村一塔説もあるのだが、こちらの草木塔はこうした故人の施主名が書かれていることが多いようである。
このあたりには、かつてはそれなりに集落があったものと思われるのだが、年々家の数が少なくなっている過疎地域になっている。
以前は田んぼの向こう側の山際にも家が点在していたものだ。
けれども、田んぼは作っている人がいて、荒れた雰囲気がないのは救いである。
草木供養塔の脇にはお地蔵さまの小さな祠がある。
この並びから想像するに、草木供養塔がどこからか移転したと考えた方が自然のような気がする。
お堂の裏を見ると…、金属製の檻のような…。
これはクマ捕獲用の罠ではなかろうか。
このあたりに熊がいても、最近のクマの動きをみれば不思議ではない。
お尻のあたりがちりちりというような感じがしてきたので、クマに出会わぬうちに退散だ。
※(2012年8月に訪ねた)
31 川西町大舟稲場の草木供#32682;塔
2013.05.30:dentakuji:[草木塔を歩く]
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