沢内の「草木供養経」という塔を読み解くカギになるのは、一つは水であるようです。
山間の村でありながら、米作ができる平地部分も多く、その水の確保と山との関わりがあり、山を守るということが水を守ることだという明確な意図を感じました。
そして、説明いただいた高橋先生は、この草木塔を建てた人の末裔にあたるという事実が判っており、先祖はどのような動きをしていたかが伝わっている。その中で、草木塔建立につながると思われるのは、あちらこちらに出かけては樹木の苗などを集めてくる人であったということ。
沢内は秋田県の横手地方の商圏であり、その秋田への道は山形県の庄内地方との交流の道であることから、山形街道という言い方もあるというのだ。
そうすると、出羽三山参りなども行われているようであり、「湯殿山」の石塔も数多く建っているということ。
残念ながら、今回その石塔は発見できなかったのだが、山形との文化的な交流が十分ありえたというお話は、草木塔建立の由来を考えるときに大きなヒントである。
もう一人の高橋さんの案内で、「深沢昂雄記念館」を訪ねた。
現在の沢内病院に正対する形で建っている、こじんまりとした建物である。
昔、看護婦さんの寮だったところを改築して記念館にしたとのこと。
深沢氏とは、昭和30年代にこの沢内村の村長さんであった、名物村長さんであった。
私は残念ながらその方のことを全く知らなかった。
「雪・病気・貧困」の三重苦にあえぐ寒村にあって、その当時医者にかかることができずに亡くなってしまう乳幼児の多さを克服し、冬季間行きに生まれる村の除雪とバスの運行を実現するなどの大きな功績を残された人であった。
予防医療に力を入れて、乳幼児死亡ゼロを達成、60歳以上の医療費負担ゼロなどを実現していたのだ。
そのこじんまりとした記念館に、私たちが行った時には久慈市から団体のバスで見学に来ており、その後は福島県のどこかの自治体の議員さんたちが視察で見えられた。この日、議員さんの視察は2組目だとのこと。
名物村長さんは、昭和30年代後半に病魔に倒れ亡くなられた。
その人の行動と功績は、多くの人の心を動かしているのだ。
二人の高橋さんには、たいへん多くのご教示をいただいた。
予定の午後4時が過ぎ、夕刻が迫り、お二人にお別れして遠野市へ向かった。
本来ならば、この近辺にたくさんある温泉に宿をとりたいところであるのだけれど、今回はもう一つの目的がある。
後ろ髪を引かれる想いで出発。
約2時間かけて、車を小雨が降り出した夜路を走らせ、遠野の宿に到着。
遠野では、草木塔の調査と、草木塔の会結成に関わって、お世話になった人に会うことになっているのだ。
昨年、縁あって山形から遠野市へ移住してきているので、じつに久しぶりにその人に会うことをみんな楽しみにしてきたのだ。
遠野は濁酒特区第1号の街である。
まずはそれをゆっくりといただきながら、その人を待つ。
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