齋藤 孝 (文春文庫 2007年)
この本を買った時は、励まされたかったのか励ましたかったのか、忘れてしまった。
この種の本を買う時は、どちらかの気持ちになっているのではないかなぁと思う。
2~3年の間、本棚に積まれたままでいた。
ふと手に取ったのは、なんとなく励まされてみたかったからかな。
「元気が出ない時に この一冊」
元気溌剌!
ファイト、いっぱぁつ!!
と、その手の飲料を飲むような気持であるかな。
けれども、そんなにかんたんに効果ありというわけにはいかない。
それなりに、なるほどと思わせられるのだけれど、解説がついている分その言葉の前後や背景を知ると、かえってちょっと違うような感がする。
その中にあって岡本太郎の言葉。
「あれかこれかとなったマイナスを選ぶんだ」これは、経験的にその方が後々自分にためになっているように思う。ただし、これは個人的なこと。
団体にあっては必ずしも当てはまらないように思う。
それから松下幸之助の言葉。
「まず汗を出せ、汗の中から知恵を出せ」
これも共感できる。
私にとって、励ましとはニュアンスが違うけれど、心に残っている言葉がある。
祖父が、子どもの私に時々語っていた言葉だ。
「だいたい、人間は糞尿袋っていうもんだ」
あまり品がよくない言葉だけれどね。
どんなに着飾っても、富を得ても、地位があっても、食べて寝て排泄する生き物なんだということで、虚飾の虚しさを伝えようとしているらしかった。それと同時に、人には平に接しなければいけないということを話していた。
子ども心に聴いていたことなのだが、この言葉が、いざとなった時(といううよりどんなにみじめな状況に陥っても^^)に思い浮かべて乗り切ってきたように思うのだ。
人の美醜や表面に惑わされるなということだ。
この本を読んで、祖父の言葉を思い出してちょっと元気が出てきた。
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(101)『親父の小言』
「大聖寺嘵仙和尚のことば」 (青田嘵知:著 TBSブリタニカ 2003年)
さて、親父というものは昔から怖いものとされており「地震、雷、火事、親父」と大きな天変地異などの次に入れられてきたものだが…、さて現代ではどうなのでしょうね。
母親の優しさに満ちた愛情とともに、父親の厳しさも愛情ととらえられていたものと思われる。
「親父の小言」というのは、子どもを世の中にちゃんと出してやるために、あえて厳しい言葉を口うるさく言われてきたものにちがいない。
私の父親はどうかというと、それほど口うるさい方ではなかったと思うのだが、子どもの頃はやはり怖い存在であったように思う。
著者の青田嘵知師は、私の友人の父親で、福島県の浪江町にある名刹「大聖寺」のご住職である。
その「親父の小言」は嘵知師の父親が書いたものだが、さらにその父親が折に触れて語っていたことを思い出して書き出していたものということである。
その「親父の小言」を嘵知師が父親を回想し、その言葉を味わい、現代的な意義について説明を加えて語っているという形になっているのだ。
大聖寺は、今年3月11日の東日本大震災で被災し、福島原発の事故の影響により、退避せざるを得なくなってしまった。
嘵知師とその奥さまは一昨年までに亡くなられている。
友人によると、原発の危険性について危惧され発言されてきたようであった。
少なくても、友人と知り合った30年前にそういう話を聞いていた。
お亡くなりになってから、図らずもその危惧は現実のものとなった。
お寺は建物の倒壊は逃れたものの、大きな被害を受け、それどころか帰ることすらできなくなってしまったのだ。
本書で語られている『親父の小言』では、直接的に原発に言及はされていないが、そのことを意識されていると思われる部分はないだろうか。
その気で読めば全てそのようにも感じがする。
中でも「火事の覚悟をしておけ」という言葉がある。
嘵仙師がお寺の火事に遭い、たいへんな苦労をされたことから出た言葉であるとしているのだが、嘵知師は日本の危機管理に言及し「自分にだけは災害が起こってほしくない」という気持ちがいつの日か「自分には起こらないような気がする」と変化し、平気でそう思い込んでしまう… という風に書いておられる。
ここに、よく表れているような気がする。
大聖寺の住職になった友人は、現在、福島市に避難してお寺の活動をしている。
その彼にこの本を戴いた。
いつ帰ることができるかわからない状態で、彼と家族は過ごしている。
親の小言と冷や酒はあとから効いてくる。
平易な言葉で書かれているこの親父の小言を、私たちは味わうべきである。
さて、親父というものは昔から怖いものとされており「地震、雷、火事、親父」と大きな天変地異などの次に入れられてきたものだが…、さて現代ではどうなのでしょうね。
母親の優しさに満ちた愛情とともに、父親の厳しさも愛情ととらえられていたものと思われる。
「親父の小言」というのは、子どもを世の中にちゃんと出してやるために、あえて厳しい言葉を口うるさく言われてきたものにちがいない。
私の父親はどうかというと、それほど口うるさい方ではなかったと思うのだが、子どもの頃はやはり怖い存在であったように思う。
著者の青田嘵知師は、私の友人の父親で、福島県の浪江町にある名刹「大聖寺」のご住職である。
その「親父の小言」は嘵知師の父親が書いたものだが、さらにその父親が折に触れて語っていたことを思い出して書き出していたものということである。
その「親父の小言」を嘵知師が父親を回想し、その言葉を味わい、現代的な意義について説明を加えて語っているという形になっているのだ。
大聖寺は、今年3月11日の東日本大震災で被災し、福島原発の事故の影響により、退避せざるを得なくなってしまった。
嘵知師とその奥さまは一昨年までに亡くなられている。
友人によると、原発の危険性について危惧され発言されてきたようであった。
少なくても、友人と知り合った30年前にそういう話を聞いていた。
お亡くなりになってから、図らずもその危惧は現実のものとなった。
お寺は建物の倒壊は逃れたものの、大きな被害を受け、それどころか帰ることすらできなくなってしまったのだ。
本書で語られている『親父の小言』では、直接的に原発に言及はされていないが、そのことを意識されていると思われる部分はないだろうか。
その気で読めば全てそのようにも感じがする。
中でも「火事の覚悟をしておけ」という言葉がある。
嘵仙師がお寺の火事に遭い、たいへんな苦労をされたことから出た言葉であるとしているのだが、嘵知師は日本の危機管理に言及し「自分にだけは災害が起こってほしくない」という気持ちがいつの日か「自分には起こらないような気がする」と変化し、平気でそう思い込んでしまう… という風に書いておられる。
ここに、よく表れているような気がする。
大聖寺の住職になった友人は、現在、福島市に避難してお寺の活動をしている。
その彼にこの本を戴いた。
いつ帰ることができるかわからない状態で、彼と家族は過ごしている。
親の小言と冷や酒はあとから効いてくる。
平易な言葉で書かれているこの親父の小言を、私たちは味わうべきである。
(100)『今日もごちそうさまでした』
好き嫌いということは、自分に全くないわけではないが、食べ物に関して言えば、嫌いなものというのはほとんど思い当たらない。
ゆっくり思い出してみると、小学校の給食のスープに入っていた半煮えのネギを食べるとき、息を止めて呑みこんでいたなぁとか、やはり給食の脱脂粉乳のミルクを飲むのが決心が必要だったなぁとかはある。
それでも、ネギが嫌いなわけではなく、あくまでその半煮えがいやだっただけで、他の食べ方ならなんでもない。
脱脂粉乳も、家で近くの酪農家からとても新鮮な牛乳が手に入って飲めていたから、そのせいでとても辛かったのだと思うのだ。
しかし、子どもの頃から成長の過程や大人になっても、食べ物の好き嫌いがある人はいっぱいいる。
好き嫌いって、いつできてしまうんだろうと、不思議に思っていた。
ピーマン・人参・きのこ・チーズ・牛乳・トマトジュース・ウド・・・その他もろもろ、「エーッ!なんでこれが食べられないの?!」という食べ物が嫌いな人がいるのだ。
もちろん、アレルギーで食べられないっていうのは、それはしょうがないんでしょうね。本人だってそのわけがわからないんだろうからね。
わが家は、貧乏だったってこともあるんだけれど、基本家族全員、食べ物の好き嫌いやアレルギーなどはあまりない。
ゆえに、貧しいながらも、頂き物が多いこともあり食卓につくことは幸せだったのである。
ただし、祖父が肉食と卵を食さない人だったため、それに合わせて私たちも家庭でそれらを食すことは小学6年までなかった。学校給食ではなんでも食べていた。
小学6年生の時、祖父がなくなって、父親が「なんでも食べるようにしよう」ということを言って、家庭でも肉と卵を食すことになった。
1960年代以降の時代としては、特異な食生活をしていたといえるのではないだろうか。
さて、『今日もごちそうさまでした』は作家の角田光代さんのエッセイ(アスペクト 2011年9月)。
「朝7時、昼12時、夜7時。失恋しても 病気になっても ご飯の時間に きっちり ごはんを 食べてきた。」と後書きで書いている。
そのとおり、決まった時間に食事を食べて、お昼にしっかり仕事をして、夜はちゃんと休むという、じつに真っ当な生活時間?!を送っている作家さんなのだ。
この、「失恋しても、病気になっても…」というところは、じつに私もその通りで、何があってもちゃんと食べれば乗り越えて行ける(ような気がする)と思っている。
ま、それほどの苦労もしていないからなのかもしれないけどね…。
角田さんは肉が好き。
それに、家庭では本人が嫌いなものを無理に食べろとは言われずに育ったという。
そのため、ある時期まで、とても偏食な人ではなかったかと思ったと言う。
そして、自立して自分で料理をするようになって、今まであまり食べなかったものを食べようと試みている。そうしたら、意外にもそのものが好きになったり、偏食傾向(食傾向)が変わってきた、克服したというのだ。
たしかに、年齢による食の嗜好は変わるように思う。
角田さんの場合は、年齢もあるかもしれないが、もっと食に関する好奇心も強いのではないかと感じる。
自分のことを考えてみると、人生半ばにして、まだ食への欲求が強く、食べたい人なのであるが、健康の維持という問題が出ており、食べる物の量と質を考え直す時期が来ているようだ。
しかし、それもなんだか悔しいのであるが。
「今日もごちそうさまでした」と食べられることが、なんと幸せで人生を豊かにすることであろうか。
ゆっくり思い出してみると、小学校の給食のスープに入っていた半煮えのネギを食べるとき、息を止めて呑みこんでいたなぁとか、やはり給食の脱脂粉乳のミルクを飲むのが決心が必要だったなぁとかはある。
それでも、ネギが嫌いなわけではなく、あくまでその半煮えがいやだっただけで、他の食べ方ならなんでもない。
脱脂粉乳も、家で近くの酪農家からとても新鮮な牛乳が手に入って飲めていたから、そのせいでとても辛かったのだと思うのだ。
しかし、子どもの頃から成長の過程や大人になっても、食べ物の好き嫌いがある人はいっぱいいる。
好き嫌いって、いつできてしまうんだろうと、不思議に思っていた。
ピーマン・人参・きのこ・チーズ・牛乳・トマトジュース・ウド・・・その他もろもろ、「エーッ!なんでこれが食べられないの?!」という食べ物が嫌いな人がいるのだ。
もちろん、アレルギーで食べられないっていうのは、それはしょうがないんでしょうね。本人だってそのわけがわからないんだろうからね。
わが家は、貧乏だったってこともあるんだけれど、基本家族全員、食べ物の好き嫌いやアレルギーなどはあまりない。
ゆえに、貧しいながらも、頂き物が多いこともあり食卓につくことは幸せだったのである。
ただし、祖父が肉食と卵を食さない人だったため、それに合わせて私たちも家庭でそれらを食すことは小学6年までなかった。学校給食ではなんでも食べていた。
小学6年生の時、祖父がなくなって、父親が「なんでも食べるようにしよう」ということを言って、家庭でも肉と卵を食すことになった。
1960年代以降の時代としては、特異な食生活をしていたといえるのではないだろうか。
さて、『今日もごちそうさまでした』は作家の角田光代さんのエッセイ(アスペクト 2011年9月)。
「朝7時、昼12時、夜7時。失恋しても 病気になっても ご飯の時間に きっちり ごはんを 食べてきた。」と後書きで書いている。
そのとおり、決まった時間に食事を食べて、お昼にしっかり仕事をして、夜はちゃんと休むという、じつに真っ当な生活時間?!を送っている作家さんなのだ。
この、「失恋しても、病気になっても…」というところは、じつに私もその通りで、何があってもちゃんと食べれば乗り越えて行ける(ような気がする)と思っている。
ま、それほどの苦労もしていないからなのかもしれないけどね…。
角田さんは肉が好き。
それに、家庭では本人が嫌いなものを無理に食べろとは言われずに育ったという。
そのため、ある時期まで、とても偏食な人ではなかったかと思ったと言う。
そして、自立して自分で料理をするようになって、今まであまり食べなかったものを食べようと試みている。そうしたら、意外にもそのものが好きになったり、偏食傾向(食傾向)が変わってきた、克服したというのだ。
たしかに、年齢による食の嗜好は変わるように思う。
角田さんの場合は、年齢もあるかもしれないが、もっと食に関する好奇心も強いのではないかと感じる。
自分のことを考えてみると、人生半ばにして、まだ食への欲求が強く、食べたい人なのであるが、健康の維持という問題が出ており、食べる物の量と質を考え直す時期が来ているようだ。
しかし、それもなんだか悔しいのであるが。
「今日もごちそうさまでした」と食べられることが、なんと幸せで人生を豊かにすることであろうか。
(98)『悲しむ力』
中下大樹 真宗大谷派僧侶、「寺ネット・サンガ」代表 (朝日新聞社 2011年7月)
キャプションに「2000人の死を見た僧侶が伝える30の言葉」とある。
著者は思うところあって真宗大谷派の僧侶となり、仏教系ホスピス(緩和ケア病棟)に勤務して末期がん患者数百人の看取りに従事。
退職後は東京に戻り、超宗派寺院ネットワーク「寺ネット・サンガ」を設立している。
ホスピスでは、はじめは「坊さんがこんなところで…」とか「縁起でもない…」というような雰囲気や実際に言葉で言われる。
そう、自分も僧衣を着て病院や老人ホームなどを訪れると、言葉では言われないものの、「誰か亡くなったのか?!」みたいな雰囲気を感じる。
著者はそんな時間を過ごしつつ、少しづつ入所者と心が通じ合い、感謝の言葉をかけられたり、あるいはその死にゆく姿から死にゆくこと生きることについて考えるようになる。
さらに、都会で「寺ネット・サンガ」の活動をするなかで、いかに、孤立して生きている人・死んでゆく人が多いかという現実に直面する。
NHKで「無縁社会」という特集を数年前から続けている。
無縁というよりは、それなりの関わりを持って行きながらも、「孤立」するというほうがしっくりくるような感がある。
都会という大人口社会の中にあって何故孤立し、誰にも知られることなく生きて、死にゆくのだろうか。
また、今年 3月11日に発生した東日本大震災の現場に入り、多くの被災した人、生き残った人、犠牲になった人と関わってメッセージを発している。
著者はこんな言葉を発している。
「静かに、ゆっくり悲しむことで やさしくなれる。生きる力がわいてくる。」
がんばれ!がんばろう!はそれからでもいいじゃないか。
起きたこと(人の死や苦しみ)にちゃんと向き合い、悲しみや苦しみという時間を過ごすことによって、やがて本当に立ち上がろうという強いチカラになる。
目をそらさず「悲しむ力」こそ今必要。
そうなのかもしれぬ。
キャプションに「2000人の死を見た僧侶が伝える30の言葉」とある。
著者は思うところあって真宗大谷派の僧侶となり、仏教系ホスピス(緩和ケア病棟)に勤務して末期がん患者数百人の看取りに従事。
退職後は東京に戻り、超宗派寺院ネットワーク「寺ネット・サンガ」を設立している。
ホスピスでは、はじめは「坊さんがこんなところで…」とか「縁起でもない…」というような雰囲気や実際に言葉で言われる。
そう、自分も僧衣を着て病院や老人ホームなどを訪れると、言葉では言われないものの、「誰か亡くなったのか?!」みたいな雰囲気を感じる。
著者はそんな時間を過ごしつつ、少しづつ入所者と心が通じ合い、感謝の言葉をかけられたり、あるいはその死にゆく姿から死にゆくこと生きることについて考えるようになる。
さらに、都会で「寺ネット・サンガ」の活動をするなかで、いかに、孤立して生きている人・死んでゆく人が多いかという現実に直面する。
NHKで「無縁社会」という特集を数年前から続けている。
無縁というよりは、それなりの関わりを持って行きながらも、「孤立」するというほうがしっくりくるような感がある。
都会という大人口社会の中にあって何故孤立し、誰にも知られることなく生きて、死にゆくのだろうか。
また、今年 3月11日に発生した東日本大震災の現場に入り、多くの被災した人、生き残った人、犠牲になった人と関わってメッセージを発している。
著者はこんな言葉を発している。
「静かに、ゆっくり悲しむことで やさしくなれる。生きる力がわいてくる。」
がんばれ!がんばろう!はそれからでもいいじゃないか。
起きたこと(人の死や苦しみ)にちゃんと向き合い、悲しみや苦しみという時間を過ごすことによって、やがて本当に立ち上がろうという強いチカラになる。
目をそらさず「悲しむ力」こそ今必要。
そうなのかもしれぬ。