人間が生まれてくるということは、その中に必ず「創造の種子」を持っている。
その種子から芽が伸びていくとき、その人の属する集団のもつ価値観と一致する部分の多い人は、それを伸ばしていくのが容易であろう。
しかし、その人の創造性は他に見えにくいし、つい全体の傾向に合わせてしまって、その中にある創造性を見出すことを怠るかもしれない。
これに反して、自分の「創造の種子」が、その人の属する集団、つまり、家庭、地域、社会、国家などの傾向と異なる場合は、なかなか困難が大きい。
生きていくためには、その人は一応は集団に適応しなくてはならない。
時には、自分の「創造の種子」を強く圧迫することによって、それを成し遂げる必要もあろう。
そのようなときに、その人は神経症の症状やいろいろな「困難」や「苦悩」に出会う。
これと戦ったり妥協たり、方向転換してみたりして、その人なりの「創造の作品」が出来上がってくる。
作品とはその人の「人生そのもの」である。
「私が生きた」という実感を持ったとき、それはいつ誰によっても奪われることのないものであることが明らかで、「創造」の実感も伴うはずである。
それが、明確なものになればなるほど、一般的な社会的評価はそれほど気にならなくなるし、それはもっともっと普遍的な存在の一部としての責任を果たしたという自己評価につながっていくだろう。
(こころの処方箋より)
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「羨ましかったら何かやってみる」
他人を羨ましいと感じるときがある。
羨ましい気持ちが起こったら、それは自然に生じてきたことだから、
良し悪しを言う前に、それが何から来ているのか、考えてみたらどうだろう。
自分にとって実に多くの未開発の部分がある中で、特に何かが「羨ましい」という感情に伴って意識されてくるのは、その部分が特に開発すべきところとして、
うずいていることを意味しているのである。
「羨ましい」という感情は、どの方向に自分にとっての可能性が向かっているかの方向指示盤としての役割をもっているといえる。
初めは、困難や苦痛を伴うにしろ、時分が発見したことをやり抜いていくと、
ある程度経てば、その面白さも分かってくるし、その頃には「羨ましい」感情も弱くなっているのが分かるだろう。
(こころの処方箋より)
羨ましい気持ちが起こったら、それは自然に生じてきたことだから、
良し悪しを言う前に、それが何から来ているのか、考えてみたらどうだろう。
自分にとって実に多くの未開発の部分がある中で、特に何かが「羨ましい」という感情に伴って意識されてくるのは、その部分が特に開発すべきところとして、
うずいていることを意味しているのである。
「羨ましい」という感情は、どの方向に自分にとっての可能性が向かっているかの方向指示盤としての役割をもっているといえる。
初めは、困難や苦痛を伴うにしろ、時分が発見したことをやり抜いていくと、
ある程度経てば、その面白さも分かってくるし、その頃には「羨ましい」感情も弱くなっているのが分かるだろう。
(こころの処方箋より)
「一人でも二人、二人でも一人で生きるつもり」
一人で楽しく生きている人は、心の中にパートナーを持っている。
「内なる異性」「内なる母や父」「もう一人の私」かもしれない。
ともかく話し相手が居るのである。
人間は自分の考えを他人と話し合うことで、随分と楽しむことができるし、客観化することもできる。
一人で生きていくためには、そのような意味で「二人」で生きていくことができねばならない。
二人で生きている人は、一人でも生きられる強さを前提として、二人で生きていくことが必要である。
無意識的寄りかかりや、抱き込みが強くなりすぎると、お互いの自由を奪ってしまい、たまらなくなってくるのである。
一人でも生きていける人間が二人で生き、お互いに助け合っていくところに楽しみが見出せるのである。
(こころの処方箋より)
「内なる異性」「内なる母や父」「もう一人の私」かもしれない。
ともかく話し相手が居るのである。
人間は自分の考えを他人と話し合うことで、随分と楽しむことができるし、客観化することもできる。
一人で生きていくためには、そのような意味で「二人」で生きていくことができねばならない。
二人で生きている人は、一人でも生きられる強さを前提として、二人で生きていくことが必要である。
無意識的寄りかかりや、抱き込みが強くなりすぎると、お互いの自由を奪ってしまい、たまらなくなってくるのである。
一人でも生きていける人間が二人で生き、お互いに助け合っていくところに楽しみが見出せるのである。
(こころの処方箋より)
