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「一流病」

建築家の安藤忠雄さんは、大学にも行かずに独学で建築学を学んで今日に至った人である。
ともかく「一流大学に入学して、一流企業に就職するのが幸福の道」と信じきって、そのために幼稚園のときから努力させられる。その結果が相当な不幸につながっていく、という例が多い。

「一流」がいけないというのではない。安藤さんのように自分の進むべき道を見出して、そこで一流に向かって努力し続けるのと、皆が考える一流というのに乗っかっていこうとするのとは、全く異なっている。後者は「一流病」とでもいうべきで、日本人の大半は、これにやられているために、随分と日本中を暗くしている感じがする。

一般の風潮や時代の流れによって判断して進路を決定しても、長い人生の間に、どう変わるかわからない。自分のやりたいことをやって身につけておくと、時代が変わっても自分のものとして揺らぎがないのである。

一流の無意味さをわかってもらえるように、なんとなく一流大学を出て、一流企業に勤めた人が20年後には、実際にどのような人生を送っているのか、というようなルポタージュを発表したりすると、面白いかもしれない。

(「おはなしおはなし」より)

2006.10.14:反田快舟:コメント(0):[仕事の流儀]

「アイデンティティ」

私のアイデンティティという場合、「私は私であって他の何ものでもない」ことが、自分自身によく納得できるということであろう。

しかし、「私とは何か」と考え出すとよくわからなくなるものだ。
この問題を身体のこととして考えてみると、臓器移植のときに強い拒絶反応が生じることはよく知られている。

これは人間の身体が「自己」と「非自己」をよく区別しており、自分以外のものを拒絶する働きをもっているからである。このような働きをするのが免疫である。多田富雄著「免疫の意味論」には極めてショッキングな事実が紹介されている。

受精後三日後ほどのニワトリとウズラの卵を使い、胚の神経管の一部を入れ替えて、ニワトリのひよこだが羽だけはウズラという鳥をつくり出す。しかし、生後三週間から三ヶ月もすると、羽がマヒして動かなくなる。ニワトリの免疫系が働いてウズラの羽を拒否したのである。

そこで次にニワトリにウズラの脳を移植すると、生後十数日で、ウズラの脳はニワトリの免疫系に拒否されて死んでしまう。つまり、「身体的に『自己』を規定しているのは免疫系であって脳ではない」のである。

こんなことを知ると「私のアイデンティティ」ということについて考え込まされ、単純な考え方ではダメだと強い反省をうながされる。

(「おはなしおはなし」より)
2006.10.14:反田快舟:コメント(0):[仕事の流儀]

「教育バブル」

自分の子どもに対して「教育投資」をすればするだけ、子どもは幸せになると、多くの人は信じているのではなかろうか。
お金のことだけではない。「知識の投資」も大変だ。小さいときからできるだけ早く、できるだけたくさんの知識を子どもにつぎ込んでおくと、
子どもの幸福もそれに比例してふくらむと考える。これは一種の「バブル現象」である。

このようなバブルが、どの年齢ではじけるかは、人によって異なる。ある意味では早くはじけてくれた方がいいかもしれない。
むしろ、どんどん膨らんで、よい高校、よい大学へと進み、よい企業に就職したとたんにはじけることがある。

詰め込まれた知識は社会人としては役に立たない。
これは教育制度の以前の、日本人全体の教育に対する、いや人生に対する根本姿勢の問題である。

(河合隼雄「縦糸横糸」より)

2006.10.14:反田快舟:コメント(0):[仕事の流儀]

「成果を上げる」

成果を上げる秘訣を一つだけあげるならば、それは集中である。
成果を上げる人は最も重要なことから始め、しかも一つのことしかしない。

(プロフェッショナルの条件:ドラッカー)

2006.10.14:反田快舟:コメント(0):[仕事の流儀]

「半歩近づく」

ある会社の課長さんは若い部下の間で評判がよく、さりとて若者に迎合して同輩者から嫌われることのない人であった。

その秘訣は「若者たちに半歩近づくこと」だそうである。若者たちから身を引いて、「近頃の若い者は」と批判したり、嘆いてもはじまらない。
といって、若者たちに一歩近づいてしまうと、途方もない要求を突きつけられて困ってしまったりする。したがって、半歩だけ近寄るのがいいという。

また、あるプロ野球の名内野手A選手手が、先輩のY選手をほめて、Y選手の方が自分より上だという。どれくらいの差か聞くと「半歩の差」という。
それに付け加えて「半歩の差を埋めるのに十年かかるだろう」という。

「半歩の差」というとわずかの差ととられやすい。しかし、人生におけるわずかの差の積み重ねが、どれほど大きいかということも示しているし、
大きい差と思っていることも、観点を換えるとわずかの差と考えられることも示していて、示唆に富んでいる。

あいつとおれの差は「半歩くらいだけ」と思って努力を怠っていると、十年の努力でも取り返しのつかない差にまで拡大されていることが多いのではなかろうか。
我々の生き方もこのような目で見直してみると、あんがい意味深い「半歩の差」が、あちこちに存在しているように思われる。

(「人生学ことはじめ」より)

2006.10.10:反田快舟:コメント(0):[仕事の流儀]