長い人生には必ず大きな波乱がある
どうにもならない、どうすればよいかわからない
大きな壁にぶつかる
そんなときにいかにして覚悟を決めるか
何としても成功させるという執念こそが
知恵を生み、壁を突き破る
壁を乗り越えてこそ本当の進歩と成長が生まれる
(「心に情熱の炎を燃やせ」より)
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「物語から学ぶこと」
昔話には普通の感情は語られない。
「手なし娘」という話では、父親が娘の手を切るが、そのときの娘の痛さや悲しみについては語られない。
「シンデレラ」の話で、母親が自分の娘の足を靴に無理やりはめ込むために、娘の足を削るときも娘の感情については、まったく触れられない。
実生活においては、娘の手を切ったり、足を削ったりする親はめったにいない。そんなことを「お話」として語ることにより、聴衆はそれをすべて「あったこと」として聴く。だからこそ、娘が手を切られたりすると、強い感情は聴き手の方に生じる。
「そんなひどいことを」とか「そんな馬鹿げたことが」と思っているうちに、実際は多くの親が、娘と恋人との間の「手を切る」ことや、大学の「狭き門」に入れ込むために、子どもの「身を削る」ことなどをやっていることに気づく。
つまり、自分があまりその意味に気づかずにしている行為を拡大して示してくれることによって、そこで感じるべき感情を体験するようにしている。
これが「お話」の特徴である。「お話」によって、はじめて真実が伝えられるのである。
(「人生学ことはじめ」より)
「手なし娘」という話では、父親が娘の手を切るが、そのときの娘の痛さや悲しみについては語られない。
「シンデレラ」の話で、母親が自分の娘の足を靴に無理やりはめ込むために、娘の足を削るときも娘の感情については、まったく触れられない。
実生活においては、娘の手を切ったり、足を削ったりする親はめったにいない。そんなことを「お話」として語ることにより、聴衆はそれをすべて「あったこと」として聴く。だからこそ、娘が手を切られたりすると、強い感情は聴き手の方に生じる。
「そんなひどいことを」とか「そんな馬鹿げたことが」と思っているうちに、実際は多くの親が、娘と恋人との間の「手を切る」ことや、大学の「狭き門」に入れ込むために、子どもの「身を削る」ことなどをやっていることに気づく。
つまり、自分があまりその意味に気づかずにしている行為を拡大して示してくれることによって、そこで感じるべき感情を体験するようにしている。
これが「お話」の特徴である。「お話」によって、はじめて真実が伝えられるのである。
(「人生学ことはじめ」より)
「心の救済が教育の原点」
思春期の子どもたちは、いじめなどのことが明るみにでたとき、「しまった」と思う反面、「ほっとした」という場合が多い。
心のどこかで「とめてくれ」と叫んでいる。そして、誰もとめてくれないとなると、それはエスカレートせざるを得ない。
中学生が特定の教師を嫌い、時にはその教師に暴力さえ揮うことがあるが、理由の一つに「あの先生は怒るべきときに怒らなかった」というのがある。もっとも、そのことを伝え聞いて、そういうことなら、と子どもに怒ったら「何を!」といって殴られた例もある。
怒ってもダメ、怒らなくてもダメ。いったいどうしたらいいのか?というわけだが、それは怒るときに「腰が入っていない」からダメなのである。正面から腰を入れて怒る。このことをせずに嘆いている人は、サッカーでもバスケットでも、ともかくシュートさえすれば点が入ると思うほどの容易な考え方をしているのである。
(「人生学ことはじめ」より)
心のどこかで「とめてくれ」と叫んでいる。そして、誰もとめてくれないとなると、それはエスカレートせざるを得ない。
中学生が特定の教師を嫌い、時にはその教師に暴力さえ揮うことがあるが、理由の一つに「あの先生は怒るべきときに怒らなかった」というのがある。もっとも、そのことを伝え聞いて、そういうことなら、と子どもに怒ったら「何を!」といって殴られた例もある。
怒ってもダメ、怒らなくてもダメ。いったいどうしたらいいのか?というわけだが、それは怒るときに「腰が入っていない」からダメなのである。正面から腰を入れて怒る。このことをせずに嘆いている人は、サッカーでもバスケットでも、ともかくシュートさえすれば点が入ると思うほどの容易な考え方をしているのである。
(「人生学ことはじめ」より)
「子どもの可能性は数字では測れない」
親や教師が子どもを評価するとき、どのような個性をもっているかではなく「何番」であるかだけに頼ろうとする。
しかも、努力さえすればだれでも一番になれることを前提としているので、子どもたちのプレッシャーは極端に高くなる。
日本は「競争社会」だからいけないというが、その認識は中途半端である。「競争社会」といえば、欧米の方がはるかにそうである。
彼らはフェアであるときの競争や対決をよしとするが、その出発点に個人があり個性がある。
ところが、日本の競争は個人よりも、ともかく全体のなかにのみ注目するので、無用、無意味の競争が多いところに問題がある。
例えば、中学生の試験においても、順位を明確にして差をつけなければならないために、瑣末なことや、どこかに落とし穴があるようなものや、ともかく早く答えねばならないようなものが多くなり、しかも、そこで1点を争っている。その試験で5点くらい違っても、おそらく、その人間の基礎学力としてはなんら差がないのに、外からの評価としては明らかな差が生じてくる仕組みになっている。
日本の教育の画一性、あるいは大学の入試制度を嘆く人は多いが、この問題は日本人全体にかかわる根本問題であるという認識が必要である。偏差値が低いからダメということはなく、後でいくらでも変わる。
その変わるということを我々が自覚する必要がある。
偏差値は、いわゆる『お勉強の程度』は測れるが、それ以外のものを測ることはできない。
(「人生学ことはじめ」より)
しかも、努力さえすればだれでも一番になれることを前提としているので、子どもたちのプレッシャーは極端に高くなる。
日本は「競争社会」だからいけないというが、その認識は中途半端である。「競争社会」といえば、欧米の方がはるかにそうである。
彼らはフェアであるときの競争や対決をよしとするが、その出発点に個人があり個性がある。
ところが、日本の競争は個人よりも、ともかく全体のなかにのみ注目するので、無用、無意味の競争が多いところに問題がある。
例えば、中学生の試験においても、順位を明確にして差をつけなければならないために、瑣末なことや、どこかに落とし穴があるようなものや、ともかく早く答えねばならないようなものが多くなり、しかも、そこで1点を争っている。その試験で5点くらい違っても、おそらく、その人間の基礎学力としてはなんら差がないのに、外からの評価としては明らかな差が生じてくる仕組みになっている。
日本の教育の画一性、あるいは大学の入試制度を嘆く人は多いが、この問題は日本人全体にかかわる根本問題であるという認識が必要である。偏差値が低いからダメということはなく、後でいくらでも変わる。
その変わるということを我々が自覚する必要がある。
偏差値は、いわゆる『お勉強の程度』は測れるが、それ以外のものを測ることはできない。
(「人生学ことはじめ」より)
