日本人は個人の能力差を認めない「絶対平等主義」をもっている。しかし、現実をみると、人間には能力差があることは厳然たる事実である。私はいくら努力してもプロ野球の選手になれなかっただろう。
山形県鶴岡市にある藩校「致道館」によると、昔は盛んに「飛び級」が行われていたそうである。荻生徂徠の考えに従って「天性の大なる者は大成し、小なるものは小成」すると考え、個々人の天性を見抜いて指導していた。戦前にも、ある程度の「飛び級」はあったが終戦後、日本人が縛られていた「身分差」をなくそうと極端な絶対平等観を持つに至った。欧米人の考える平等は「機会の平等」であるが、個人差つまり能力差の存在を明確に認めている。かといってアメリカ的な弱肉強食では感心しない。日本人は、天の配剤としての「天性」を認めて、それが偉いとか得するとかではなく、その人の「天性」の実現として努力すると考えるのがよいのではないか。それは、個であって全体につながっている。
(「縦糸横糸」より)
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