人間が生まれてくるということは、その中に必ず「創造の種子」を持っている。
その種子から芽が伸びていくとき、その人の属する集団のもつ価値観と一致する部分の多い人は、それを伸ばしていくのが容易であろう。
しかし、その人の創造性は他に見えにくいし、つい全体の傾向に合わせてしまって、その中にある創造性を見出すことを怠るかもしれない。
これに反して、自分の「創造の種子」が、その人の属する集団、つまり、家庭、地域、社会、国家などの傾向と異なる場合は、なかなか困難が大きい。
生きていくためには、その人は一応は集団に適応しなくてはならない。
時には、自分の「創造の種子」を強く圧迫することによって、それを成し遂げる必要もあろう。
そのようなときに、その人は神経症の症状やいろいろな「困難」や「苦悩」に出会う。
これと戦ったり妥協たり、方向転換してみたりして、その人なりの「創造の作品」が出来上がってくる。
作品とはその人の「人生そのもの」である。
「私が生きた」という実感を持ったとき、それはいつ誰によっても奪われることのないものであることが明らかで、「創造」の実感も伴うはずである。
それが、明確なものになればなるほど、一般的な社会的評価はそれほど気にならなくなるし、それはもっともっと普遍的な存在の一部としての責任を果たしたという自己評価につながっていくだろう。
(こころの処方箋より)
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