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「物語から学ぶこと」

 昔話には普通の感情は語られない。
「手なし娘」という話では、父親が娘の手を切るが、そのときの娘の痛さや悲しみについては語られない。
「シンデレラ」の話で、母親が自分の娘の足を靴に無理やりはめ込むために、娘の足を削るときも娘の感情については、まったく触れられない。

 実生活においては、娘の手を切ったり、足を削ったりする親はめったにいない。そんなことを「お話」として語ることにより、聴衆はそれをすべて「あったこと」として聴く。だからこそ、娘が手を切られたりすると、強い感情は聴き手の方に生じる。

「そんなひどいことを」とか「そんな馬鹿げたことが」と思っているうちに、実際は多くの親が、娘と恋人との間の「手を切る」ことや、大学の「狭き門」に入れ込むために、子どもの「身を削る」ことなどをやっていることに気づく。

つまり、自分があまりその意味に気づかずにしている行為を拡大して示してくれることによって、そこで感じるべき感情を体験するようにしている。
これが「お話」の特徴である。「お話」によって、はじめて真実が伝えられるのである。

(「人生学ことはじめ」より)
2006.12.12:反田快舟:コメント(0):[自分を見つめる]

「心の救済が教育の原点」

思春期の子どもたちは、いじめなどのことが明るみにでたとき、「しまった」と思う反面、「ほっとした」という場合が多い。
心のどこかで「とめてくれ」と叫んでいる。そして、誰もとめてくれないとなると、それはエスカレートせざるを得ない。

中学生が特定の教師を嫌い、時にはその教師に暴力さえ揮うことがあるが、理由の一つに「あの先生は怒るべきときに怒らなかった」というのがある。もっとも、そのことを伝え聞いて、そういうことなら、と子どもに怒ったら「何を!」といって殴られた例もある。

怒ってもダメ、怒らなくてもダメ。いったいどうしたらいいのか?というわけだが、それは怒るときに「腰が入っていない」からダメなのである。正面から腰を入れて怒る。このことをせずに嘆いている人は、サッカーでもバスケットでも、ともかくシュートさえすれば点が入ると思うほどの容易な考え方をしているのである。

(「人生学ことはじめ」より)


2006.12.11:反田快舟:コメント(0):[自分を見つめる]

「子どもの可能性は数字では測れない」

 親や教師が子どもを評価するとき、どのような個性をもっているかではなく「何番」であるかだけに頼ろうとする。
しかも、努力さえすればだれでも一番になれることを前提としているので、子どもたちのプレッシャーは極端に高くなる。

 日本は「競争社会」だからいけないというが、その認識は中途半端である。「競争社会」といえば、欧米の方がはるかにそうである。
彼らはフェアであるときの競争や対決をよしとするが、その出発点に個人があり個性がある。
 ところが、日本の競争は個人よりも、ともかく全体のなかにのみ注目するので、無用、無意味の競争が多いところに問題がある。
 
 例えば、中学生の試験においても、順位を明確にして差をつけなければならないために、瑣末なことや、どこかに落とし穴があるようなものや、ともかく早く答えねばならないようなものが多くなり、しかも、そこで1点を争っている。その試験で5点くらい違っても、おそらく、その人間の基礎学力としてはなんら差がないのに、外からの評価としては明らかな差が生じてくる仕組みになっている。

 日本の教育の画一性、あるいは大学の入試制度を嘆く人は多いが、この問題は日本人全体にかかわる根本問題であるという認識が必要である。偏差値が低いからダメということはなく、後でいくらでも変わる。
その変わるということを我々が自覚する必要がある。

偏差値は、いわゆる『お勉強の程度』は測れるが、それ以外のものを測ることはできない。

(「人生学ことはじめ」より)


2006.12.10:反田快舟:コメント(0):[自分を見つめる]

「豊かさの中で見失った家庭教育」

今日の教育のあり方を「偏差値教育」などと名づけ、人間性が大切という人は多い。
それでは、人間性を養うという点で、自分は家庭において何をしているのかを考えると、どうだろうか。
いや、自分は忙しい、という人は、「人間性教育」を全面的に学校教育に任せようというのだろうか。

何ごとも経済優先の世の中だから、自分はお金を稼ぐのに忙しく、教育は学校でと割り切るのだったら、学校教育にもっとお金をかけるべきではなかろうか。
教科のみならず人間教育もお任せ、というのだったら、教師の数をこれまでの倍にするとか、教師の給料を倍にするとか、を真剣に考えるべきであろう。

自分がするべきことを他人に任せて、稼ぎを多くし、他人に金を払わないというのは資本主義の理念に反している。

(「人生学ことはじめ」より)
2006.12.09:反田快舟:コメント(0):[自分を見つめる]

「教育・学校」

何人かが集まると他人の悪口を言ったり、こき下ろしたりすることも人間の楽しみの一つかもしれない。
現在は、教育論が花盛り、最後は文部科学省がけしからんとなって一同溜飲を下げる。

しかし、生涯教育が重視される今日において、自分自身の教育はどうなっているか、家族、社会の一員として何らかの意味で教育にかかわっているはずの、自分の生き方などを考え始めると、現在の日本における教育の困難さが身にしみて感じられる。

学校とか教育とかの問題として論じられる前に、日本人あるいは自分自身としての生き方ということを見直していく必要があるのではないだろうか。

(「人生学ことはじめ」より)

2006.12.08:反田快舟:コメント(0):[自分を見つめる]