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「西洋的自我と東洋的自我」

 西洋の場合は自我を確立しようとする際、女性でも「男性的自我」を確立するという形が出来上がっている。
それは困難を排除し、戦って勝ち抜いて自分をつくりあげていくという自我です。

今、日本人もこの西洋的自我を身につけようとしているが、日本人の場合は、周囲を常に入れ込んで、周囲とつながりながら自分をつくっていく。だから自分が何かしたいときでも、周りがどう思っているか、とか、大体はこういうことなんだろう、とか「察する力」が必要である。

日本の状況下では、会社などの組織に縛られている男性より、女性の方が男性的自我を持ちやすいといえる。

(こころの天気図より)

2006.10.14:反田快舟:コメント(0):[自分を見つめる]

道草によってこそ「道」の味がわかる

子供の頃、道草をしてはいけません。とよく言われたものである。しかし、子供にとって道草ほど面白いものはなかった。
道草をせずにまっすぐ家に帰った子は、勉強をしたり仕事をしたり、マジメに時間を過ごしただろうし、それはそれで立派なことであろうが、道の味を知ることはなかったというべきであろう。

生き方の道として、目的地にいち早く着くことのみを考えている人は、その道の味を知ることがないのである。もっとも、道草によってこそ道の味がわかると言っても、それを味わう力を持たねばならない。そのためには、それを眺める視点をもつことが必要と思われる。

(こころの処方箋より)
2006.10.02:反田快舟:コメント(0):[自分を見つめる]

「すべての人が創造性を持っている」

人間が生まれてくるということは、その中に必ず「創造の種子」を持っている。
その種子から芽が伸びていくとき、その人の属する集団のもつ価値観と一致する部分の多い人は、それを伸ばしていくのが容易であろう。

しかし、その人の創造性は他に見えにくいし、つい全体の傾向に合わせてしまって、その中にある創造性を見出すことを怠るかもしれない。
これに反して、自分の「創造の種子」が、その人の属する集団、つまり、家庭、地域、社会、国家などの傾向と異なる場合は、なかなか困難が大きい。
生きていくためには、その人は一応は集団に適応しなくてはならない。
時には、自分の「創造の種子」を強く圧迫することによって、それを成し遂げる必要もあろう。

そのようなときに、その人は神経症の症状やいろいろな「困難」や「苦悩」に出会う。
これと戦ったり妥協たり、方向転換してみたりして、その人なりの「創造の作品」が出来上がってくる。
作品とはその人の「人生そのもの」である。

「私が生きた」という実感を持ったとき、それはいつ誰によっても奪われることのないものであることが明らかで、「創造」の実感も伴うはずである。
それが、明確なものになればなるほど、一般的な社会的評価はそれほど気にならなくなるし、それはもっともっと普遍的な存在の一部としての責任を果たしたという自己評価につながっていくだろう。

(こころの処方箋より)
2006.10.02:反田快舟:コメント(0):[自分を見つめる]

「羨ましかったら何かやってみる」

他人を羨ましいと感じるときがある。
羨ましい気持ちが起こったら、それは自然に生じてきたことだから、
良し悪しを言う前に、それが何から来ているのか、考えてみたらどうだろう。

自分にとって実に多くの未開発の部分がある中で、特に何かが「羨ましい」という感情に伴って意識されてくるのは、その部分が特に開発すべきところとして、
うずいていることを意味しているのである。

「羨ましい」という感情は、どの方向に自分にとっての可能性が向かっているかの方向指示盤としての役割をもっているといえる。

初めは、困難や苦痛を伴うにしろ、時分が発見したことをやり抜いていくと、
ある程度経てば、その面白さも分かってくるし、その頃には「羨ましい」感情も弱くなっているのが分かるだろう。

(こころの処方箋より)
2006.10.02:反田快舟:コメント(0):[自分を見つめる]

「勇気を失くせば、全てを失う」

ものを失くせば、小さなものを失う。
信用を失くせば、大きなものを失う。
勇気を失くせば、全てを失う。
(J.F.ケネディ)
2006.10.02:反田快舟:コメント(0):[自分を見つめる]