HOME > 自分を見つめる

「あがる」心理

「あがる」というのは、通常の意識状態と異なる意識の状態である。
だから、思いがけない失敗をしたり、平素の力が出なかったりする。
そこで、「あがる」のを防ごうということになるのだが、はたして、あがらないことはいいことなのだろうか。

そもそも舞台に立ったり、講演するということ自体「普通」でないことをしている。
それを観る観客、聴く聴衆にしても「普通」ではないのではなかろうか。
「あがる」とはその表現どおり、意識が高揚し、普通でない状態になっているのだ。

「あがる」からこそ、名演技や名演奏ができたりする。そして観客も感動する。
「あがりすぎないあがり方」、あるいは、どんなに「あがる」ことがあっても失敗しない人、それができる人がプロではなかろうか。
どれほどあがっても失敗しない、というのは十分な練習によって支えられている。

(ココロの止まり木より)
2006.10.26:反田快舟:コメント(0):[自分を見つめる]

「解答を得る、という罠」

イスラム教の、その子はいじめられっ子だったが、何とか自分を強くして欲しいと祈ったら、アッラーが力を与えてくれたのか、ぐっと相手をにらみつけることができた。
しかし、問題はそこで終わらなかった。いじめっ子の方が自分を強くしてくださいと神に祈るとどうなるのかという疑問が生まれてきたのだ。

考えてみると、この世には悪いやつで強いのがたくさんいるではないか。これに答えて欲しいと、その子はアッラーに祈った。
そのとき、この子は神の声を聞いた。「一生悩み続けていいのだ。悩みをしまいこんで忘れないように祈りなさい」と。

この子はこの答えに当惑する。神はもっと明確な答えを与えてくれると期待していたから。
しかし、その後も考え続けて、「悩み続けることに意味がある」ことを悟る。子ども達は大人を超える光を感じ、大人の計り知れぬ闇も体験していることであろう。

大人も子どもに負けぬように、もう少し悩み続けてもいいのではなかろうか。
最近の不幸な事件の報道に接して思うことは、どんな事象に対しても「なぜ」と問いかけ、その原因を探り、それなりの答えを導き出し安心するというパターンにはまり込みすぎている、ということである。

一番大切なことは、このようなことは簡単にその「原因」など分かるはずがない、ということである。原因-結果という一つの道筋によって、これほどのことを説明したり、納得したりしようとする態度を、まず棄てることが必要ではないか。「なぜ」と問えば必ず答えが返ってくるはずだ、というのは、浅はかな思い込みだと思う。

(「縦糸横糸」より)
2006.10.19:反田快舟:コメント(0):[自分を見つめる]

「ウソつきは精神的健康の始まり」

 ウソをつけないほうがもっと悪い。
ウソをつきとおすことに伴う精神的エネルギーの大変さを感じたことのない人はないでしょう。

だからか、私たちはウソをつきとおすことは、たいていの場合できません。
思い余って正直に告白したり、それとなくほのめかすこともあります。

ウソをつかれると、その人にウソつきのレッテルを貼りますが、ということはその瞬間、人はそれをウソと知っているということで、それはウソでもなんでもない。そこにはウソは存在しないということではないでしょうか。

ウソをつける精神力を養おうといったらウソになるでしょうか。

(こころの日曜日より)

2006.10.14:反田快舟:コメント(0):[自分を見つめる]

「私は・・・です」から浮かび上がるもの

 心理テストに、20クエスチョンというのがあります。
「私は・・・です」とういのが20書いてあり、その「・・・」の部分に、何でもいいからできるだけ早く書いてもらうやり方です。

「私は○野○男です」と、名前を書いてもいいし、「私は男です」でもいい。
何でもパッパッと20書くわけです。その後で、消してもいいと思うものから消していきます。
そうやって、消して残った部分は、その人にとって大事な意味を含んでいる場合が多い。

深くは分からなくても、書いた本人が、後から調べて面白いこともあります。
何でこんなことを、書いたのだろうとか、この項目を残したのはなぜだろう、とか。
日本人の場合は、わりに職業が出てきます。
日本人は、どこかに所属すると、それで自分の説明がつく気がするのです。
ところが、女性の場合、特に仕事をしていない人は、その問いかけが自分に厳しくなる。

「家庭の主婦」では、あまり所属している感じはしないし、「○○の家内です」では、パッとしないし。
私とは何かの問いかけは、根源的に女性の方がよくしているのではないでしょうか。

(こころの天気図より)
2006.10.14:反田快舟:コメント(0):[自分を見つめる]

「自分の中の『子ども性』に目をむける」

 自分の中にも「子ども」がいることを忘れると、わが子や教え子に対する期待が大きくなる。
大人になっても「子ども性」があって、その良さも幼さも、ちゃんと持っている。
子どものようにすくすく成長する芽も持っている。

でも、自分の中のこの芽を伸ばしてやろうと思うと、どれほど難しいことか。
その難しさがわかれば、わが子ばかりに、伸びろ伸びろとはいえないでしょう。
自分の子どもとうまく付き合っている人は、自分で楽しいことやアホなことをやってて、その延長線上で子どもに接するから、そんなに無茶な期待はかけない。

ところが、自分の子ども性を無視していると、その分を全部相手にかぶせるから、期待が肥大して、子どもは「たまったものじゃない」となる。

(こころの天気図より)
2006.10.14:反田快舟:コメント(0):[自分を見つめる]