電車内で携帯電話を使う人は、それが他人に対して不快感を与えていることに全く気づいていない。他人を不愉快にしてまで一分一秒を節約しようとする人が、どれほど時間を本当に大切にしているか大いに疑問である。
また、会議の途中、携帯電話の呼び出しで室外に出て行く人がいる。中には講義中にかかってくる携帯電話に出る大学教授もいるという。これは、生きていく基本姿勢として、少しでも早く外から来る情報をキャッチしないと損をすると思い込んでいる。「今、ここの自分」に満足できず、何か少しでも新しいことを早くキャッチしなければ、と思い落ち着きがないのである。
常に外とのつながりを求めつつ自己中心的である姿は、自己に深く沈潜することによって他とのつながりを見出していく態度とは全くの対極をなしている。現代人の人間関係の希薄さ、まずさは、その根本として、自分の内面とのつながりが切れていることにある。それを外とのつながりによって補償しようとするのである。
このような姿は、根が切れた木が、互いに枝を絡み合わせて、やっと立っているのに似ている。辛うじて倒れずにいるが、やがては枯れてしまうことだろう。この空しい枝の絡み合いを、ネットワークなどと呼んでいるのである。
(「縦糸横糸」より)
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「人間関係のエアポケット」
伝統的な日本人の人間関係は、運命的であり、一蓮托生的である。一度関係ができると一体となって運命を共にすることを理想とする。欧米から個人主義の考えが入ってきて、これまでのベタベタした人間関係が嫌になってきて他人と「関係ができる」のをできるだけ避ける傾向がでてきた。
自分の周囲の人と”深い関係”ができてしまうと面倒である、といって深まらない関係ばかりでは孤独感が強くなってくる。さらに男女のこととなるとさらに難しくなってくる。そこで手軽に出会い系サイトなどについ手が出てしまうのである。しかし、自分自身を守る訓練ができていないために、初対面でもまったく無防備で睡眠薬を飲まされて金品を盗まれるなど、まるでエアポケットのような文化の隙間に落ち込むような事件が生じる。
日本人は、人間関係のあり方、男女関係などについて、今後もっと研究する必要がある。それを怠っているとテクノロジーに人間が潰されてしまうことだろう。
(「縦糸横糸」より)
自分の周囲の人と”深い関係”ができてしまうと面倒である、といって深まらない関係ばかりでは孤独感が強くなってくる。さらに男女のこととなるとさらに難しくなってくる。そこで手軽に出会い系サイトなどについ手が出てしまうのである。しかし、自分自身を守る訓練ができていないために、初対面でもまったく無防備で睡眠薬を飲まされて金品を盗まれるなど、まるでエアポケットのような文化の隙間に落ち込むような事件が生じる。
日本人は、人間関係のあり方、男女関係などについて、今後もっと研究する必要がある。それを怠っているとテクノロジーに人間が潰されてしまうことだろう。
(「縦糸横糸」より)
「こころの中の脇役」
自分は自分のこころの中では主役であることはもちろんだが、能に「ワキ」という役があるように、こころの中にも脇役もいることをよく認識し、その力にも頼ってはどうだろうか。
こころの中で、「シテ」のように、思考や感情が自由に動き回っている時、そこに、「ワキ」がいることによって、それらに深みが生じ、変に踏み外すことを防止してくれる。
シテだけをやっていては、行き詰ってしまうとどうにもならなくなってくる。
立元幸治は、著書「こころの出家、中高年の心の危機に」(ちくま新書」で、中高年の危機を乗り切る上で、こころの中での「出家」をしてはどうだろうかと、主張している。
考えてみると、中高年の自殺など、下手な出家ということかもしれない。
それよりも「こころの出家」をすることにより、人生の危機を乗り切り、豊かに生きられるのではないだろうか。
(ココロの止まり木より)
こころの中で、「シテ」のように、思考や感情が自由に動き回っている時、そこに、「ワキ」がいることによって、それらに深みが生じ、変に踏み外すことを防止してくれる。
シテだけをやっていては、行き詰ってしまうとどうにもならなくなってくる。
立元幸治は、著書「こころの出家、中高年の心の危機に」(ちくま新書」で、中高年の危機を乗り切る上で、こころの中での「出家」をしてはどうだろうかと、主張している。
考えてみると、中高年の自殺など、下手な出家ということかもしれない。
それよりも「こころの出家」をすることにより、人生の危機を乗り切り、豊かに生きられるのではないだろうか。
(ココロの止まり木より)
「友情」
友情は人間にとって非常に大切なものである。
夫婦、親子、きょうだい、上司と部下、あらゆる人間関係にとって、
それが深まってくると、その底に友情が働いていることに気づくだろう。
フレッド・ウルマン「友情」(集英社)の「私」は16歳の高校生、本当の友人はいないと思っている彼の前に、一人の転校生が現れる。
主人公の「私」は「彼」こそ真の友人になるべき人と思い定め接近していった。
「私」にとって真の友人とは「その人のためには喜んで生命を投げ出したいと思う人」である。
彼の注目を引くため、「私」は授業にも熱心になり、教師に認められるようになる。
そして、やがて「彼」との間に友情が成立する。
二人の友情がどのように展開し、ナチスの台頭という運命のいたずらに、
どのように対処したかは、ここでは触れないでおこう。
日本の高校生に、この本を読んで同級生と話し合っていただきたい。
中学生、大学生とっても意味のある本だと思う。
(ココロの止まり木より)
夫婦、親子、きょうだい、上司と部下、あらゆる人間関係にとって、
それが深まってくると、その底に友情が働いていることに気づくだろう。
フレッド・ウルマン「友情」(集英社)の「私」は16歳の高校生、本当の友人はいないと思っている彼の前に、一人の転校生が現れる。
主人公の「私」は「彼」こそ真の友人になるべき人と思い定め接近していった。
「私」にとって真の友人とは「その人のためには喜んで生命を投げ出したいと思う人」である。
彼の注目を引くため、「私」は授業にも熱心になり、教師に認められるようになる。
そして、やがて「彼」との間に友情が成立する。
二人の友情がどのように展開し、ナチスの台頭という運命のいたずらに、
どのように対処したかは、ここでは触れないでおこう。
日本の高校生に、この本を読んで同級生と話し合っていただきたい。
中学生、大学生とっても意味のある本だと思う。
(ココロの止まり木より)