小野川温泉 吾妻荘

小野川温泉 吾妻荘
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 清水山に祠があったのは、覚えているが
 毘沙門様だったどうかまでは、子供のころで
 知らない。 安永元年(1772年)製塩始まり
 天保2年(1831年)洪水で、塩とりばと
 富士や弥兵エ以北17戸流失。とあります。
 天保14年(1843年)毘沙門堂再建。
 梅津弥平エ、鈴木宗益の名が施主にみえます。
 梅津さんは、現在、小野川に住んでいませんが
 上杉の定宿であった富士屋さんの子孫です。

 寛政期(1770年頃)の小野川温泉図をみて
 特徴的なのは、塩とりば、医師鈴木宗益、湯の
 効乃うなどですが、中風、神経障害、胃腸病
 皮膚病、など幅広い病に効能が期待されていたことが
 わかります。
 この版画は塩とり場とあることから、上杉鷹山公
 が塩田を作って温泉から塩をとっていた寛政期の
 版画と思われます。明治の小野川よりももっと
 多くの宿があったことがわかります。大火があったので
 整理されたのでしょう。
 姉の同級生に藁科さんという方がいらしたんですが
 こういう少ない名前は先祖がたどりやすいです。
 置賜に藁科と名のる家は、17軒あります。そのうち
 7軒が田沢で残りが米沢です。幕藩期の前、今から四百数十年
 前、正宗について仙台に移った重臣、館山城の新田氏の
 兵に馬上として名前が出てくる人の一人に田沢の藁科がいて
 このうちの藁科家文書に当時の様子が書かれています。(米沢市史)
 通常は、農耕し、戦時は主家に従ったものでしょう。
  二階堂旅館さんは、須賀川の二階堂がルーツでしょう。
 米沢から喜多方、会津方面に向かう途中、
 小野川に左折する所に館山発電所がある。
 その場所に中世の城跡がある。この城の
 築城者は、奥州藤原一族の新田冠者経衡
 と伝えられ、代々新田(仁井田)を名のり
 大江長井、伊達に仕えたといわれています。
 伊達の重臣として正宗と仙台に移り中村性
 を名のったとつたえられます。 
  これは、京都大学図書館でネット公開している
 伊達成実の「伊達日記」です。米沢城から岩出山城
 (鳴子温泉の近く)に移封される様子を正宗の側近が
 後年振り返って、記したものです。わずか1000人
 ばかりで、移っていった様子がわかります。福島北部、
 置賜盆地を200年支配した大家臣団を擁する伊達の
 居残り組はその後どうしたのでしょうか。
 小野川の近く館山発電所に中世の城跡があります。

  小野川温泉の旅館にお城の名前がついている
 旅館が多い。 坂本屋ー坂本城、春木屋ー春木城
 宍戸城、堺城、山川城、二階堂城,梁川城。
 徳川250年間の支配以前は、伊達が200年間
 この地を支配していたわけで、名字からすると
 伊達の宮城県岩出山城移封の際の居残り組の系列か
 あるいは、それ以前の奥州藤原期、坂東武士の系列
 のものか、いずれにしても藤原系の名前が多い。
 坂本城は、亘理で伊達が支配していた時期が長く
 遠藤という名は、伊達にも関係してますし、さらに
 それ以前の藤原にも関係した名前です。
 伊達騒動で殺傷沙汰を起こし亡くなり、長いあいだ
 奸臣呼ばわりされていた原田甲斐宗助は、
 山本周五郎のあまりにも有名な「樅ノ木は残った」
 で主家伊達家の滅亡を救った人として描かれ評価が変わり
 ました。樅の木は、原田家の愛木とされてきたものです。
 
 ダリア園は、小松城にありますがこの城は伊達の重臣
 原田氏の居城と伝えられ、上杉以前の200年間この
 地を支配したと伝えられます。そして伊達正宗が米沢から
 仙台に移封されたときに1000人で 移ったと
 同時代の史料に書かれており伊達の家臣の系列の
 ものが置賜一円に多く居残ったと考えられます。
 もみの木は残ったであまりにも有名な原田甲斐の先祖も
 伊達と移っていきましたが、小松は地主の多い土地で
 原田の家臣の系列のものが多いと考えられます。