終わりかけの

  • 終わりかけの
木みたいになっていたマリーゴールドの、
種をとりました。

ハーブとしても使えるマリーゴールド。
花はドライに、
葉っぱも使えるのですが
今年は
十分に時間がかけられなかったので
冬を前に早めに処分しました。

しかし、
一週間前に処分したものから
花が咲いていました。

根から養分を得ることができなくなっても
蓄えた栄養や雨で必死に咲いています。


私はまだ生きてるんだよ、とでも
言っているような。

儚いようにみえて力強い。


野菜でも何でもそうだけど、
食べる部位を収穫し終えてしまえば
あとは不要品として処分されます。


でも、命まるごと、と考えるなら
やっぱり来年は
一つ一つの作物をもっともっと
「使い切る」
そのレベルを上げたいな、と。


農家じゃないところから農に興味を持つ人は
自分を含め
理想ばかりを語ることが多いから
まずは慣行農業がどういうものなのか
農家さんがどう考えているかを
今年は知りたいなと思っていました。

春時点ではまだ
土を鍬で耕そうとすら思ってたんです。


今年一年、経験しただけですけど
自分に出来ることとそうでないことは
少しずつわかってきたつもりです。

便利なものを使って
自分の生活のバランスをとることは
やっぱり必要です。


でも、全てにYesといって
取り込まれる必要もない。


どこまでが自分にとってYesなのか。


全部のマリーゴールドを引っこ抜いてから
考えていました。

全部葉っぱの落ちるまで放置して
枯れてしまえば
見た目にはみすぼらしいかもしれません。

でも、自然な状態を考えれば
次の年は、こぼれた種で
春にはかわいい芽が出て
夏頃にはきれいなお花畑になる。


でもやっぱりここは畑だから
秋には整然として返すのが当然。

そしてやはり
人の手を全くかけないものが
美しいかといえばそういうわけじゃない。

お手入れされた庭や畑は
やっぱり素敵です。


ようは子育てや仕事との
バランスのとり方ということなんですけど。

また、生きていく最低限のラインなのか、
ある程度、周囲を意識したラインなのか
ということもあります。


秋の、ゆるやかに
「閉じていく」ような畑を眺めていると
いろんなことを考えます。
2011.10.20:asuka:[■畑の作物たち]

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