社会の窓を開いてくれた新聞配達
2両編成のディーゼルカーがホームに入ってくる。止まったディーゼルカーの最後尾の車掌室の窓からドサッと紙包みがホームに投げ落とされる。私はそれを拾うと小さな駅の待合室で荷をほどく。インクの匂いがする夕刊が出てくる。夕刊でありその日のニュースが1面をかざる。小学生の私にとっては理解できない「与党」とか「野党」、「保守と革新」といった言葉も並ぶ。タスキをかけて走っている選手が一面の写真をかざる。たぶん正月明けの箱根駅伝の結果だったのではないか。この時の新聞は、新聞を購読していない我が家にとっては貴重なニュースとの出会いである。
夕焼けが空を染め始める頃、小さい体の脇に新聞を抱え、配達に走り出す。家々の窓に明かりが灯り、夕げの味噌汁のにおいもする。病弱でほとんど入院していた父、男に交じって建設現場で働いていた母、我が家にとってはあり得ない家庭の風景を連想させる。時には雨が降って水たまりに新聞を落とし、泣きながら一軒一軒お詫びしながら配達した。吹雪の中をかじかんだ手で配達をした。わずか200円ほどの配達の手当は我が家の家計の足しとなった。
冬、駅の待合室の赤々と燃えるだるまストーブは何よりのごちそうであった。何にもまして、開いた時に飛び込んでくるニュースは、小学生の私を国内はもとより世界各地に誘ってくれる貴重な社会への窓であった。きっと私の配達した新聞は、それぞれの家庭にニュースを届けていたことになる。
喜寿の年齢まであとわずかであるが、毎朝届く新聞は楽しみの一つである。まぎれもなく我が家に届く新聞は自分と社会を繋いでくれる架け橋である。
60数年前と変わらずに。