87歳といえば、日本人男性の平均寿命81歳よりはだいぶ長生きしたことになります。
しかし、つい4月あたりにはゴルフも楽しんだ義理の父。肺がんであっという間の最期でした。
私が結婚当初は、義理の父は自宅(郡山市)で母親の介護をしていました。
床ズレしないように体の向きを変えたりするのも、介護用ベッドでも大変なのに、
普通の布団で2時間ごとにそれを行っていましたから、実に大変なことだったと思います。
おむつを交換したり痰をとったりと、四六時中向き合っていないとできないことでした。
平日日中は仕事をしていましたから、夜と休日は俺の番、ということで率先して行なっていました。
学校時代の同窓会や会社のOB会のお世話役、ゴルフや麻雀、旅行の幹事なども、
いつも積極的に行なっていました。
私達世代ならデータはPCで管理し、案内状は宛名の本文もプリントすれば終わり。
メールやLINEで確認や調整などもできますから、それほど苦ではありません。
(それでもみんなやりたがりませんがね)
昭和初期生まれの義理の父は、もちろんすべてアナログ。
ハガキに一枚一枚全部手書き。そして一人ひとりに電話で確認するといったやり方です。
電話をかけるときの雰囲気は、きっちり丁寧な文字の住所録からみられる几帳面さとは
真逆で、実に気さくな感じでユーモアたっぷり。
そして場に臨んでは、本人自らも大いに楽しみ、みんなを楽しませるといったタイプでした。
一緒にどこかへ出かけると、例えばガソリンスタンドでは、窓を拭いてくれる青年に、
「いや~、一生懸命拭いてくれてありがとない。暑くて大変だない」
と郡山弁で気さくにすぐに話しかけ、励ますのです。
そういう調子でずっとやってきた人なので、緩和ケア病棟に入院しても、見習い看護師
が来たりすると、優しい言葉とねぎらいの言葉をかけていました。そういう習慣がまさに
身についていた(沁みついていた)人でした。
そんな義理の父だったので、最期はきっと苦も無く眠るように息を引き取るに違いない、
と勝手に想像していました。そして実際そのとおりになりました。
葬儀に参列してくださった方々からは、口々に温かい言葉がかけれらました。
人がどう生きてきたか、ということが、お葬式にすべて表れるなぁ、と感じました。
祭壇は、生前好きだったゴルフのグリーン(18番ホールのピン付)と釣り場である福島の
自然が表現されており、笑顔の遺影とともに人柄が偲ばれるものでした。
安らかにお眠りください。
この記事へのコメントはこちら