最上義光歴史館

最上義光歴史館
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 当館では現在、「シン・市民の宝モノ2025」(3月30日まで)を開催しています。山形市民が所蔵する宝モノを公募し展示する、市民参加型の展覧会です。出品に関しては古今東西、評価なども一切問わず、自慢の宝モノを物語とともに展示しています。おかげさまで、新聞やテレビなどからも、通常の企画展以上に取材いただいております。
 今回はテーマを「陶磁器」とし、皿や茶碗、花瓶などの出品を想定していましたが、ドレスデンレース人形や平清水焼の土人形、香炉、火鉢、さらには小松均画伯が絵付けした湯飲みというのもあり、予想を超える様々な出品をいただきました。まさに市民のお宝展というか、博物館の原点を思わせる展覧会となっております。感謝申し上げます。
 ちなみに、「ヨーロッパの博物館・美術館には、バロック期のヴンダーカンマー(驚異の部屋)に発祥するものが多い。ヴンダーカンマーとは、世界中の珍しい事物(異国の工芸品や一角鯨の角、珍しい貝殻、等々)を、種類や分野を問わず一部屋に集めたものである。」とWikiさんにありまして、規模は別として、今回はまさにそのような趣きになっています。
 これが日本の場合、博物館のきっかけとなるのが博覧会らしく、やはりWikiさんによると、「1872年(明治5年)、ウィーン万博への出品準備として開かれた湯島聖堂博覧会(文部省博物館)が日本の博物館の始まりとされ、東京国立博物館はこの時をもって館の創立としている。」とのことです。
 1867年(慶応3年)のパリ万博には、幕府、薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ出展しているのですが、佐賀藩は、陶磁器や白蝋、和紙、茶などの特産品を、薩摩藩も陶器の薩摩焼や絹製品を出品したとのことで、いずれも陶磁器を出品しています。そのような歴史的経過からも、博物館の基本は陶磁器にあるなぁとも思うわけです。ちなみに、幕府による展示は、飾馬に乗る武者人形とともに、江戸商人が連れてきた3人の芸者が茶屋で日常生活を再現するなどし、パリっ子の人気をさらったそうです。画期的な展示というか、民俗学的というか。
 その民俗学ですが、大阪の国立民族学博物館(民博)は、日本万国博覧会の跡地に建設、1977年(昭和52年)に開館しています。設計は黒川紀章。メタボリズムの思想のもと、収蔵資料の増加にあわせ増築していくというものでした。収蔵庫不足に悩む各地の博物館の皆様、特に地元大阪におかれましては、切に願う思想ではないかと。
 そのきっかけは、太陽の塔での展示のために収集された資料や万博閉幕後の跡地利用を意識していた岡本太郎や梅棹忠夫の存在と、日本民族学会の「国立民族学研究博物館」構想とが重なり、国立民族学博物館が建設されることになったそうです。
 岡本太郎は、太陽の塔の地下空間に展示する仮面や神像などを収集するため、東京大学の泉靖一教授と京都大学の梅棹忠夫教授に「日本万国博覧会 世界民族資料 調査収集団」を組織することを依頼しました。約 20 人の若手研究者を世界中に派遣し、2,600 点近くの民族資料を集め、その約半数の資料を太陽の塔の地下空間に「根源の世界」というテーマで展示しました。その後、収集資料のほとんどが民博に収蔵されたそうです。
 今度の大阪・関西万博の会場跡地は、カジノやサーキットがあるリゾートになるようですが、博物館的には何か残すのでしょうか。まあ、廃棄物の埋め立てでできているこの会場自体は、「人新世」という地質時代を確実に残すことにはなりそうですが。(「人新世」は、1950年代を境に人類の活動が地球全体に影響を及ぼした地質時代として提案されたのですが、最近、国際地質科学連合で残念ながら否決されてしましたが)
 ところで、「博物館」という名称は、1861年(文久元年)の江戸幕府の文久遣欧使節の日録で、「British Museum(大英博物館)」に対して「博物館」という訳語を与えたことによるそうです。また、この「Museum」の語源は、「Mouseion」つまり芸術と学問を司るミューズの神々に捧げられた神殿に由来し、芸術家の方がよく、意中のご婦人に「ああっ、私のミューズ!!」と、口にするとかしないとかも、御存じのとおりです。と言うことで、当館の「シン・市民の宝モノ2025」には、ミューズとまでは言わないまでも、弁天様を中心に七福神を乗せた陶製の宝船も展示されております。

(→館長裏日誌に続く)