最上義光歴史館

最上義光歴史館
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 ここしばらく展覧会の企画をネタに、脇道ばかりに逸れていて、まあ、いつもそうではありますが、今回は普通に歴史的事件の話題でも。さっそくですが、中学レベルの日本史の問題です。朝鮮出兵に関するものですが、家庭教師で有名な某社の穴埋め問題から。(出典「Try iT」)
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 朝鮮出兵…最終的には(   )の征服が目的
  1592年(   )の役 … 首都・漢城を占拠するも、朝鮮水軍に苦戦
  1597年(   )の役 … 秀吉の死によって、翌年に兵を引きあげる
 豊臣氏に仕える大名の多くが兵を失い、力がおとろえる
  → 朝鮮出兵に参加しなかった(    )が力をつけていく
  → 朝鮮から連行された陶工(陶磁器職人)により(   )焼などがつくられる
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 それでは解答と解説を。まず、征服しようとした場所ですが、「朝鮮出兵」というからには最終的には「平壌」あたりか、というとそうではなく答えは「明」。まあ、でかい話ではあります。つまり朝鮮は明への経由地という位置づけです。
 続いて「(   )の役」ですが、個人的なことですが、高校入試に社会科がなかったためこれは難問でして、答えは「文禄」と「慶長」で、まとめて「文禄・慶長の役」とも言うそうです。そして、力をつけたのは誰か。「最上義光」も朝鮮には渡っていないのですが、力をつけていくのは「徳川家康」とのこと。この「力」というのは、「兵力」ではなく「政治力」のことをいうのでしょう。
 最後は「有田」を正解としていますが、「波佐見」が好きな人とか、「伊万里」でもいいんじゃないとか、いろいろとご意見もあろうかと。まあ、中学生でそんな面倒なことを言う人も少ないとは思うので、まずは「有田」ということで。
 次はオリジナルの問題を。
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 豊臣秀吉が朝鮮出兵を行った理由は次のどれですか。
ア 急成長を遂げてきた豊臣家が、諸将の俸禄とするために、次々と新たな領地の獲得を必要としていたため(領土拡張説)
イ 国内統一や権力集中を図るため、国内の動乱を外に向けさせようとしたため(動乱外転説)
ウ 朝鮮は対馬に従属していると秀吉が誤解し、国内統一の延長として朝鮮を征伐しようとしたため(領土誤解説)
エ 明との勘合貿易や通商貿易の拡大を目指したが、朝鮮が明との仲介要請を拒否したため(勘合貿易説)
オ 天下統一による平和を、海上においても実現するため(統一による平和推進説)
カ スペインの侵攻やキリスト教宣教師の進出をくいとめるため(侵略阻止説)
キ 明征服後に後陽成天皇を北京に移し、日本の天皇には良仁親王か智仁親王をいただき、豊臣秀次は中国の関白に、朝鮮は羽柴秀勝か宇喜多秀家に与えるため(大陸経略構想説)
ク 秀吉自らは「日輪の子」であるという感生帝説を主張し、明を征服して日本の風俗や文化を未来永劫に植え付けるため(妄想征服欲説)
ケ 妹の朝日姫、弟の秀長、息子の鶴松、千利休、母の北政所の死が続き、精神を病んだあるいは認知症を発症したため(精神疾患説)
コ 息子の鶴松を幼くして失い、悲嘆のあまり自暴自棄に陥ったため(鬱憤説)
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 以上、さまざまな学説等があるのですが、正解は不明です。従前はコの(鬱憤説)が有力だったのですが、秀吉が唐入(明国征服)の構想を描いていたのは、天正十五(1587)年の九州遠征の頃からであり、鶴松が亡くなる(1591)以前のことです。近年ではエやカを背景とした「東アジア交易の独占支配」説が有力のようです。
 実は明国侵攻を最初に発案したのは織田信長であり、彼は海外事情に精通し、貿易の重要性を認識していたため、朝鮮に対明貿易の仲介を求めていました。秀吉はその「信長の野望」を果たそうとした、という説もあります。この他にも諸説あり、自己顕示欲説とか、複数の理由が重なっているという説ももちろんあります。
 朝鮮出兵は、日本国内50万人と言われる兵力のうち20万人が駆り出されていますが、その理由がアやイとか、ましてケやコでは従う気にもなれないわけで、せめてオやカぐらいの大義名分がほしいところでしたが、とにかく実際は、呆れつつもこの老天下人の決定に従うほかはなかったようです。
 さて、この朝鮮出兵に最上義光はどう関係しているのか、それは裏館長日記で。

(→裏館長日誌)