最上義光歴史館

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最上義光の四男 山野辺義忠の成長期を探る

【二 義忠の略歴を見る】

 先ずは義忠の略歴を、[最上家系](光明寺本)から述べてみよう。

「義忠 号山野辺 天正十六子年生 小字於比治利 後右衛門 号右衛門太夫 元和七(八)年蒙秀忠公御勘気、最上領地被召放 預池田宮内太輔忠雄 幽居于国十三年寛永十酉年依家光公命 預水戸頼房卿 賜一万石 後祝髪道慶 寛文四年十二月十四日卒 于水戸七七才 号良源院」

 次に[最上家系図](宝橦寺本)を見てみよう。

「義忠 山野辺右衛門大夫 従五位 住羽州山野辺 元和八戌年常州中納言扶助 寛文四乙辰卒、良源院殿前監門貞誉松屋道慶大居士 義光四男」

 以上・伝える数ある中から二点を選んでみたが、他の系図書をも含め、その内容には殆ど変わりは見られない。巷の伝えによれば、義忠は義光の四男として天正十六年(1588)、大石田町深堀地区の郷士の娘を母として生れ育ち、楯岡城主楯岡豊前守の庇護を受け育ったという。そして、関ヶ原の戦い後の慶長六年(1601)、山辺城主として大石田深堀地区の人々を引き連れ、山辺村の南部に住まわせたという。義忠の十四才頃のことであろう。
 このように伝えられる義忠の出生の経緯や、これから取り上げていく複数の「知行状」から、聖丸(比治利・義忠)と名乗った幼少の頃の、最上一族としての領分が、楯岡満茂 (後の本城豊前守)の勢力圏内、若しくは隣接した地域に存在していたことが判る。
 楯岡城主の満英が、東根氏滅亡の際に共に死亡したという天正十三年(1585)以後は、その子という満茂が、いずれの勢力圏の内に吸収されて行ったのか。
 [曽根家文書]からの天正九年(1581)前後かと確認される、天童氏宛の楯岡満茂署名の書状から推察すると、既に楯岡地区の支配圏を握っていたのは、満茂であったと考えられる。
■執筆:小野未三

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