最上義光歴史館

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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【氏家守棟(13)】


 しかし、その和議も翌天正十五(1587)年には破られて最上家の庄内侵攻が本格化し(注40)、十一月までには武藤義興を滅ぼしている(注41)。翌天正十六年の二月には、由利十二頭の一人である岩屋朝盛から氏家尾張守に書状が送られており(注42、43)、岩屋が昨冬庄内へ下向した義光に参上した様子が伝えられている。わざわざ庄内においての出来事を連絡している内容であることから、氏家尾張守は天正十五年の庄内攻略には参加しなかったか、あるいは義光と交代し山形に帰陣した可能性を指摘できよう。

 書状史料の上で、再び氏家守棟が登場するのは天正十九(1591)年の事である。
 前年から引きつづいたいわゆる太閤検地において、前年に仕置軍の先導として仙北に入った鮭延秀綱・寒河江光俊は、小野寺氏領湯沢城に滞陣し上浦郡の領有権を主張する構えを見せたが、奉行色部長真の勧告により同地を退陣したと見られる(注44)。しかし、天正十八年末から天正十九年春にかけて最上義光が上洛、秀吉に対して工作した結果、上浦郡は最上家の領有権が認められた(注45)。これに関して、守棟は色部に対し、最上家が上浦郡の領有権を獲得した件を伝え、また百姓の逃散に対処するよう要請した書状を色部に対し発給している(注46)。同内容を記した鮭延秀綱書状(注47)の中で「山形留守居氏家尾張守」と明確に記載されており、守棟は、義光上洛中の在国衆を管轄する責任者である事が推測されるのである。

 これ以降「氏家尾張守」の名が記載される書状史料は途絶える。『奥羽永慶軍記』最上義光・伊達政宗閉門之事条で、両家の代表的家臣の名が挙げられているが、その中に「氏家尾張守」の名はない。この記事内容は文禄四(1595)年の出来事を指しており、恐らく守棟は文禄四年までに死亡しているものと推測されるが、根拠としては若干薄いと言わざるをえない。新たな史料の発見が待たれる。 

 以上、書状史料を中心として氏家守棟の動向を探った。守棟は、最上義光の代理として各地を転戦し、また義光へ対する他家よりの書状の披露や添状の発給等を担当しており、軍事外交面での活躍が顕著である。義光の上洛中は「山形留守居」としての役割を課されており、氏家氏には、斯波氏入部から引き続く家宰的性格が強く残存していたと考えられる。
〈終〉

(注40) 『山形県史 古代中世史料1』
    第二高等学校所蔵文書 五月廿五日付武藤義興書状写
(注41) 『秋田県史 資料編第1巻』
    田村文書 霜月廿四日付最上義光書状
(注42) 『山形県史 古代中世史料1』
    秋田藩家蔵文書 衣更着九日付岩屋朝盛書状
(注43) 天正十六年の年号比定は『山形県史』による。
(注44) 『秋田県史 資料編第1巻』
    色部文書 十月廿五日付鮭延愛綱書状
(注45) 『秋田県史 資料編第1巻』
    色部文書 二月八日付鮭延愛綱書状
(注46) 『秋田県史 資料編第1巻』
    色部文書 二月廿六日付氏家守棟書状
(注47) 『秋田県史 資料編第1巻』
    色部文書 二月廿八日付鮭延愛綱書状