最上義光歴史館

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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【氏家守棟(11)】


 それでは、この文書に見える「敵」というのは誰の事であろうか。当時庄内に勢を張っていた武藤氏は、最上家に対して敵対的な立場を取っていたが、天正十年には由利地方侵攻を企図していた(注29)と同時に、村山郡へ軍事行動を行う動きを見せた(注30)。義光は、その対応として「庄中へ鮭延典膳さし越」そうとしたのであろうが、前年に最上家へ服したばかりの地域であったから、諸国人達、あるいは地侍連中が一枚岩であったかというとそうではないだろう。依然として武藤氏は強大な勢力を誇り、加えて三月の時点で氏家が山形へと帰陣してしまっていたとすれば、最上家の影響力が薄れ、国人領主らは自力救済の論理を盾に武藤氏に与する可能性も十分に考えられた。かかる情勢の中で、武藤氏は漫然と軍事行動を実行しようとしたとは考えにくく、恐らく周辺の中小勢力に揺さぶりをかけ、煽動しようとした可能性が高い。事実、大江一族の白岩八郎四郎が武藤氏に内通して反乱を起こし、鎮圧された様子が義光から安東愛季へ対して同年十一月に連絡されている(注31)。この白岩八郎四郎と同様な反乱が、小規模ながらも真室地方でも発生したのではなかろうか。義光はこれを重く見て、「敵」いわゆる煽動に乗った中小勢力の反乱を鎮圧し、また武藤氏の来襲に備えさせる為、その指揮を取らせることを目的として氏家を差し向けたと考えられようか。

 以上をまとめると、氏家は天正九年、最上地方に義光の名代として赴いたとはいえ、鮭延氏ら国人衆に対する影響力はさほど強いものではなく、国人衆やその陪臣達に対する加増・減封等強大な権限を付与されているわけではなかった。安堵された国人達の領地も、国人領主達の自主申告で刈高を把握するのが精一杯といった所ではなかったろうか。さらに天正十年においての真室下向は、「代官の為」と書状にはあるが、実際に鮭延氏や清水氏の領国統治を代行した訳ではなく、単に最上地方の軍事指揮権掌握を限定目的とした派遣であったことが想定されるのである。
〈続〉

(注29) 『山形県史 古代中世史料1』
    田川八幡神社文書 四月三日付武藤義氏書状
(注30) 『山形県史 古代中世史料1』
    秋田藩家蔵文書 七月十二日付武藤義氏書状
(注31) 『山形県史 古代中世史料1』
    湊文書 霜月廿五日付最上義光書状


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