最上義光歴史館

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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【氏家守棟(9)】


 天童城攻略から間を置かず、義光は谷地の白鳥氏、寒河江の寒河江氏を攻めて西根筋を領国化した。根本史料は存在しないが、白鳥氏と寒河江氏宗家は討滅されたとみえ、寒河江氏の旧領には寒河江氏庶族の寒河江外記・寒河江肥前らが登用されて配置された(注23)。谷地・溝延・左沢のほとんどは最上氏の蔵入地になったと推測される(注23)。

 さらに下って天正十五(1587)年には、義光は庄内へと進攻し、武藤義興を自刃させた。義興の養子である義勝は実父の本庄繁長を頼って落ち延びた。その後、庄内の統治は在地領主の東禅寺筑前が中心となり、最上家臣の中山玄蕃と談合して統治する状況となった。

 以上のように、最上氏が他勢力を攻略した際には、谷地、小国のように徹底的に討滅され義光の蔵入地ないし直臣の知行地となるか、既存勢力の領地を安堵し、最上氏領国に取りこむという形をとっていた。もちろんこれは最上氏のみに見えることではなく、当時としては一般的な領国化政策であったわけだが、これは同時に、最上家が在地勢力とその領地とのつながりを完全に否定しえなかった事を意味する。
 それでは、天正九・十年における最上地方はどうであったか。
 当時の鮭延氏、あるいは清水氏の領地支配体制を知りうる直接の史料はないが、慶長期に記された「鮭延越前侍分限帳」(注25)あるいは「清水大蔵大輔分限帳」(注25)をもって推察する事が可能であるように思われる。「一 知行高千石 平岡館主 柿崎能登守 … 一 同千石 庭月館主 佐々木理右衛門 … 以上一族並館持衆老臣也」とあるように、これを見る限り鮭延氏は慶長・元和段階に至ってもなお領地内に有力陪臣達の城館を有しながら領国支配を行うという体制にあった事が把握できる。清水氏も同様の傾向が見られる。慶長・元和段階においてすら極めて戦国的な支配体制を引きずっていた状況であり、最上氏領国となった天正九・十年当時の鮭延領・清水領と大して変わりの無い支配体制であったのではないだろうかと推測される。

 以上を踏まえて、村山郡における氏家守棟の動静に注目したい。天正九(1581)年には真室一帯が最上氏により領国化され、翌十年には武藤氏の侵攻にさらされたこの地域で、氏家は最上義光の「名代」としていかなる影響を及ぼしていたのだろうか。
〈続〉

(注25)『新庄市史』

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