最上義光歴史館

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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【氏家守棟(8)】


 天正九(1581)年のなかごろ、鮭延秀綱の帰順によって村山郡一円は最上氏の領国となった。当時の最上地方は、清水(現在の大蔵村)に清水氏、小国(現在の向町)に細川氏、新庄に日野氏そして真室に鮭延氏が割拠し、それぞれに勢を張っていた。加えて、東に大崎氏、北に小野寺氏、西に大宝寺武藤氏という大勢力が控え、最上地方の情勢は極めて不安定だったといえるだろう。このような状況下で、鮭延氏を帰順させた後も同地に留まり「代官」として最上義光の名代を務めた氏家守棟は、同地を統治するにあたりいかなる権限を義光から付与されていたのだろうか。
 
 検討に入る前に、最上義光が抵抗勢力を攻略し、最上氏領国とする時に取った過程を簡単に把握したい。なお、ここでいう「領国化」は、義光が蔵入地として直轄統治するか、もしくは在地勢力の所領を安堵して広義の軍役を課した状態と定義する。

 義光が家中の内訌を制して、対外的な軍事活動を本格化させるのは天正五年の天童氏攻めである。天童城はすぐには落ちなかったようで、義光は天童頼貞の娘を側室として迎え、天童氏と和睦した。和睦により天童八楯との関係を一時安定化させたことから、北進戦略を選択することが可能となった義光は、天正九年頃には村山郡(現在の最上地方)の攻略に着手している。まず小国城の細川直元を攻めた最上勢はこれを破り、滅亡させたという(注22)。細川氏がいかなる人物であったかを示す史料は伝わっていないが、天童氏の姻戚だったようで、天童氏の影響力を背景に小国一帯を支配していた在地領主であろう。その後の小国城主の座は蔵増安房守に与えられ、その後蔵増氏は小国姓を名乗った。

 天正十(1582)年に至ると、天童夫人が死去したため、天童氏との和睦が自然消滅する状態となった。義光は天童氏を中心とする国人連合の切り崩しを企図して、延沢満延の嫡子又五郎に息女を嫁がせ、延沢氏を最上家勢力に取り込んでいった。連合からの延沢氏離脱を契機に、義光は天童方についた諸国人を攻略していく。東根城主の東根頼景は天童頼久の実弟であったが、家臣里見源右衛門が義光に内通し、最上勢を手引きして東根城を急襲し、頼景を襲殺した。その後東根城は里見源右衛門に与えられたが、東根氏の所領はそのまま源右衛門へ安堵されたようである(注23)。天正十二(1584)年には天童城も落城していた模様で、天童頼久は国分氏を頼って落ち延びた。その後、天童城には城将を置かず、延沢氏の預りになったという(注24)。天童氏の旧領は、最上家の蔵入地と、家臣の知行地が混在した状態になっていたと推測される。
〈続〉

(注22)『奥羽永慶軍記』(山形市史 史料編1 最上氏関係史料)
(注23)「最上義光分限帳」(同上)
(注24)『山形県史 1』


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