最上義光歴史館

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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【氏家守棟(5)】


 以上の事柄を踏まえたうえで、軍記史料の内容を検討する。まず、紙幅の関係上、全文を挙げる事はしないが、一部抜粋しながら軍記史料から読み取れる状況を整理したい。
 なお、軍記史料の引用は『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』による。

 状況1 上山城主は満兼であり、里見越後・民部らはその家臣である
 ・『最上記』満兼生害之事
  (前略)氏家進出て御掟尤に候ヘ共、満兼家の子に里見内蔵介・同民部・
  越後とて、隠なき剛の者罷有候、(後略)
  (氏家が進み出て、「お考えはもっともかと思いますが、満兼の家来に
   里見内蔵介・民部・越後という剛の者がおります…)

 状況2 里見民部調略に関わる一連の記述の時代設定は天正十二年前後である
 ・『奥羽永慶軍記』上野山満兼被討事
  (前略)イサヤ此間ニ上野山ニ押ヨセ満兼ヲ討トラントソ宣ヒケル、
  楯岡豊前守申サレシハ、…(後略)
  ((義光は)いざ、この隙に上野山へ押し寄せ、満兼を打ち取ろう」
   と仰ったが、楯岡豊前守がこう申された。)
  →楯岡豊前守が最上家の被官となったのは、天童氏を中心とした
   国人一揆が瓦解した天正十二年前後である。よって、
   この記事内容の時代設定はそれ以降と判断できる。

 状況3 満兼と義光は敵対状況にあった
 ・『奥羽永慶軍記』上野山満兼被討事
  (前略)猶モ意恨ヲ散セス、義光ヲ討ント謀ルノヨシ聞ユ、(後略)
  ((満兼は、)なおも遺恨をもち、義光を討とうと謀っていると
   聞こえ、…)

 これらの状況に関して、前述した史料検討を加味し、史料批判を行う事とする。

 『日記』または『記録』を見る限り、天正二年の段階において、既に里見民部は最上義光の被官として名前が登場している。しかも、上山城の主権力者として捉えるのが自然な記述となっており、「満兼」という人物は全く登場しない。仮に満兼が城主であったならば、天正二年正月二十五日条の記述は「置賜郡屋代荘高畠城主小梁川中務盛宗ニ命シテ、上山満兼カ居ケル村山郡上山城ニ向テ戦ハシム」となるはずである。加えて、状況3から見るに満兼は義光に対し反抗心を抱いており、義光に与同して伊達家の軍勢と戦うのはいささか不自然だ。『日記』によれば、二月二十四日と三月二十八日の二度にわたって、上山勢が北条荘(現在の南陽市)を襲撃している記述が見られる。殊に、二月二十八日の出陣では目々沢丹後・同肥前という伊達家側の地侍を討ち取る働きを見せている。この時点での上山城主が満兼であったならば、かかる積極的な軍事活動を催すであろうかという疑問が湧く。満兼は義光を討たんと思い、また義光も満兼を討たんと考えていたようだが、満兼が義光を討つならば、輝宗に加担するのがそれを成す手段として最も適しているように思われ、輝宗に対して積極的な敵対的行動を避けるはずである。

 以上を考慮すれば、軍記史料における「義光・氏家守棟らの調略により、里見民部・越後が上山満兼を謀殺し、上山城はその後里見一族の手に与えられた」という一連の記述は、多くの矛盾を内包したもので、その信頼性は著しく低いと断じざるをえない。ゆえに、氏家守棟が義光と談合し里見を調略したかどうかは事実として認定はできない。さらに、前に挙げた里見越後宛宛行状が一次史料としての信頼性を著しく欠くことは述べた通りだが、これを偽文書と仮定した場合、上山満兼の名が登場する一次史料は全くもってなくなり、軍記史料の記述も疑わしいとなれば、「上山満兼」なる人物の実在性にも疑問を呈せざるをえなくなるのである。仮に、氏家らの手により調略が行われたとすれば、それは天正二年より以前と判断すべきで、天正二年段階では上山城は最上義光の与党となっていたと考えるのが妥当だろう。
〈続〉

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