最上義光歴史館

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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【氏家守棟(3)】


 定直の仲介も空しく、翌元亀二(1571)年には再び義守と義光の関係は悪化していた模様である。天正二(1574)年には父子間の争いが南出羽一帯を巻き込んだ全面的軍事抗争に発展した。その中で、伊達輝宗は義守方として介入し、正月には高畠城主小梁川盛宗に命じて上山城主里見民部を攻撃させた。また、天童・東根らの周辺国人領主達も義守について、当時義光と協力関係にあった寒河江氏を攻撃し、義光に対する圧力を強めた。さらに五月から六月にかけては輝宗自身を総大将とし、先陣に小梁川盛宗を配した大規模な陣容を催して上山城下まで進出した。しかし、南方の葦名家に関する情勢が急を告げた為、輝宗は一旦米沢まで帰陣している(注12)。

 この時点での守棟の動静であるが、恐らく義光や周辺の城主達と共に事態収拾の為活動していたのではないかと推測される。『性山公治家記録』天正二年九月一日条に「御和睦ノ義ニ就テ、当家ヨリ亘理兵庫頭元宗、義光ヨリ氏家尾張、中途ヘ出合ヒ相談ス」とあり、氏家守棟が伊達家との和睦交渉を担当している事が明確で、同年九月四日条「当家ヨリ草刈内膳、義光ヨリ里見民部、途中ニ出合ヒ御和睦ノ相談アリ」同年九月十日条「義光ト御和睦ニ就テ、互ニ御名代ヲ以テ御対面ノ儀アリ、此方ヨリ富塚孫兵衛、義光ヨリ谷柏某(筆者注:谷柏相模守か)ヲ出サル」と、谷柏相模守や里見民部らと氏家守棟が連携しつつ和睦交渉を進めている様子が想起される。守棟は、氏家の家督を継いだ直後から、父である定直の職責を引き継ぎ、一線級の直臣として活動している事が窺える。

 ここにおいて疑問が生じる。軍記史料等に見える通説では、里見越後・民部親子が氏家守棟の献策によって主君の上山満兼なる人物を裏切り、最上家へ参入した時期は、

例:『奥羽永慶軍記』上野山満兼被討事
 (前略)イサヤ此間ニ上野山ニ押ヨセ満兼ヲ討トラント宣ヒケル、
    楯岡豊前守申サレシハ、(後略)
 →記事の時代設定は、楯岡豊前守ら東根筋の国人領主が義光へ出仕した後…天正十二年以降

 と、いくつかの軍記史料を見る限りその時期は天正十二年以降の設定となっているのが多数である。しかしながら、『性山公治家記録』天正二年正月二十五日条を参照すると、「置賜郡屋代荘高畠城主小梁川中務盛宗ニ命シテ、最上出羽守殿義光ノ家臣里見民部カ居ケル村山郡上山城ニ向テ戦ハシム」とあり、同年九月四日条にも「当家ヨリ草刈内膳、義光ヨリ里見民部、途中ニ出合ヒ御和睦ノ相談アリ」と、既に天正二年正月から九月にかけて上山城の旗色は義光方であり、その主権力者はすでに里見民部で、義光被官としての活動が明らかである。
〈続〉

(注12)『天正二年伊達輝宗日記』『性山公治家記録』

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