最上義光歴史館

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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【氏家守棟 (1)】


 本稿では、書状史料や諸記録類を中心とした史料群を拠り所とし、氏家守棟に関して検討を試みたい。氏家氏は、十五世紀には既に最上家の中で高位の家臣であったことが史料から読み取れ、十六世紀中盤段階に至って氏家尾張守守棟(うじいえ おわりのかみ もりむね)が氏家の名跡を継いだ後も最上義光の腹心として活躍し、最上家の勢力拡大に大きく寄与したことは間違いない。軍記物史料においては、「時ノ執事氏家尾張守、元来忠アリテ義アリ、謀ハ楠カ肝肺ノ中ヨリ流レ出ルカ如キモノ也、」と智謀の士として評され義光一の家臣として最も登場機会の多い家臣であるが、それにとらわれ現在に至るまで一次史料を用いた詳細な動向検討はあまりなされていない現状にある。最上家が勢力を伸張させる段階において最上家臣団に与えた影響は小さかろうはずはなく、最上氏の成長段階における家臣統制を探る上で大きな指標となる人物といえるだろう。

 氏家氏に関する先行研究は、『山形市史 原始・古代・中世編』において、氏家氏が斯波兼頼に随行して出羽へ入部し、兼頼の代官として活躍した氏家道誠を祖としていることを検討したのが、最も早い段階の部類に入る先行研究であろうか。その他『天童市史』に天童と氏家氏の関係が記されており、『最上義光分限帳』に氏家の在地が天童であるとの記述があるが、氏家が天童城を居城とした事実は無かろう、と結論付けているに止まっている。また、『山形の歴史』『山形市史』では氏家守棟を成沢道忠の子としているが、近年の研究(注1・注2)、では守棟の嫡子が成沢家より入嗣したとしている。家系については、陸奥大崎氏家臣氏家氏との関係を考察した論考(注3)も存在する。
〈続〉

(注1) 『戦国大名家臣団辞典』(新人物往来社 1981)
(注2) 『羽州最上家旧臣達の系譜 ―再仕官への道程―』(小野末三 最上義光歴史館 1998)
(注3) 「大崎執事「氏家」氏の系譜について」(石田悦男『六軒丁中世史』 大石直正先生還暦祝賀実行委員会 1991)


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