最上義光歴史館

最上義光歴史館
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関東に於ける最上義光の足跡を求め ―特に関ヶ原戦以後に限定して―

【二 最上家の江戸屋敷】

 家康が天下の覇権を握り、幕府開設の慶長八年(1603)の頃には、天下の諸大名の集まる江戸屋敷も、急速に整えられてきたようだ。現存する当時の[慶長江戸絵図][注1]から、その「添書」を見ると、同十一年の江戸築城に関わった大名達へ、屋敷地を与えた時に与えた絵図であると書かれている。そこに区分された大名や旗本達の屋敷名があるが、これらの殆どは、未だ屋敷地のまゝの状態であったと考えられる。
 最上家の位置を探って見よう。皇居の大手門から北東二百数十メートルの地点、地下鉄千代田線大手町駅と半蔵門線の交差地点の上部位置にある。最上家の占める一角には、親藩・譜代の者達が占めており、その中に外様の最上義光の名がある。
 『山形市史』などを見ると、すでに二ケ所の下屋敷があったとしているが、慶長の頃は浅草川(隅田川)を挟み以東は府外(下総)であり、明暦三年(1657)の江戸大火の後の万治二年(1659)に両国橋が架けられ、本所築地奉行が置かれ御府内朱印内に編入されたのは享保四年(1719)である。慶長の頃の本所周辺は町方共に手付かずの地であり、義光存命の頃には、本所には未だ屋敷は無かった。
 また、柳原河岸(現台東区浅草一、中央線浅草橋駅付近)にあった屋敷は、元和八年(1622)の最上家改易後の源五郎義俊が、大手町の屋敷を没収され柳原の屋敷へ移ったことは、寛永初期の[武州豊嶋郡江戸庄図][注2]と『細川家史料』から、屋敷替えの事実を知ることができる。思うにこの柳原の屋敷は、天正十八年(1590)に徳川家の証人となった義光の次男の家親の屋敷であったのかも知れぬ。それは大手前に屋敷を持つことになるまでは、憶測ではあるが最上家の拠点であったのかも知れぬ。
 この時期の隣国の伊達家屋敷についての認識は、政宗が家康より屋敷を与えられたのは慶長六年(1601)十月、「江戸屋敷、桜田・愛宕ノ下・芝四個所共ニ此年一度ニ拝領シ玉フヤ、様子不知」[注3]としており、伊達家にしても、慶長の頃の江戸屋敷についての認識は稀薄であった。
 また、[慶長江戸絵図][注4]に見る大名達への賜邸(屋敷地)については、「関ヶ原後、慶長六、七年頃ヨリ八、九年乃至十年頃ニ亘リ、全国ノ大小名コトゴトク邸宅ヲ江戸ニ開ク、之ガ為メ城下ハ俄カニ弘拡セラレ……」とあり、さらに各大名達への賜邸年代、場所別の区分では、義光へは慶長九年(1604)の賜邸としている。
 小倉藩主細川忠興が嗣子の忠利に宛てた、同九年二月九日付の書状がある。

各其地ニ屋敷拝領被申付候由、我等ニも申請可然由承候、六、七番目ニ可申請候間、可被得其意候、是又口上ニ申候、具隼人・左馬所より可申候、 恐惶謹言[注5]

 忠興は、細川家にも屋敷地を与えられ、それが六、七番目になるだろうといっている。絵図の最上屋敷の区画の一辺を六十間としているので、凡そ三千六百坪の広さであったろうかと思われる。この時期は江戸市街地の造成も満足に進んでおらず、厳密に譜代・外様の区別もなく、地割りも必ずしも禄高と広さとは一致しておらず、最上家にしても江戸城に近接して、親藩・譜代の大名達と肩を並べた位置にある。これは、開発初期のこと故に、ある程度は先着順に屋敷地を与えられたともいっている。
 この大手前に構えた屋敷こそが、義光の江戸での活躍の拠点として、その機能を発した場であったのであろう。しかし、その期間は意に反して永くは続かず、その死から九年足らずして、最上家はこの屋敷を去らなければならなかった。
■執筆:小野末三

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[注]
1、[慶長江戸絵図](『東京市史稿・皇城篇』)
添え書きに「慶長十一丙午年江戸御城立、此図者江戸御城建大名并御旗本江、屋敷地被下候節之図面」とある。
2、[武州豊嶋郡江戸庄図]
寛永九年当時のこの絵図には、大手前の最上屋敷には鳥居家が入っている。柳原の屋敷には最上源五郎が入っている。
3、『貞山公治家記録・巻之二十一』
4、[慶長江戸絵図](『東京市史稀・皇城篇』)
大手前付近には、河中島少将(松平忠輝)・青山伯耆・山形出羽守・酒井河内守・土井大炊頭・板倉周防守などがいる。慶長十七年五月、「上総介(忠輝)江戸屋敷夜半焼亡、家不残、但、他所不及類火」と、隣家の松平屋敷が火災を起こしたが、周囲には類を及ばすことなく、最上屋敷は延焼しなかったようだ。
5、「細川家史料」(『大日本近世史料』)