最上義光歴史館

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最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門

【六 [土肥家記]を解いて】

 この[家記]の編者は、加賀藩前田家に仕える有沢永貞(俊貞)である。永貞は最上家の旧臣有沢采女長俊の孫にあたる。采女は土肥氏の越中弓庄以来の旧臣で、半左衛門と行動を共にし最上の臣となる。最上時代は下次右衛門の配下として、小国の城を預かる。元和二年(1616)四月、半左衛門の死後に、自ら最上を退去する。有沢氏の[先祖由緒]に、「微妙院(利常)様御代元和二年、於金沢被召出、知行千石拝領仕金之番鳥ニ被仰付……寛永八年六月廿三日病死仕候」と、幸いに前田家に仕えた。
 延宝九年(1681)二月、孫の永貞は無残にも果てた旧主を回顧、天正以来の土肥の事跡を書き残す。ここに半左衛門の半生の一端を探求、その知られざる部分に光を当て、真実に迫って行きたい。
 まず、[家記]は旧主の汚点とされる二大事件を、どのような扱い方をしていたであろうか。
 
…然るに慶長年中出羽守殿の嫡子修理亮に家督を譲り、其後悔敷成候哉、修理亮不幸之旨申上而押籠、三男駿河守家親に国を渡さる、出羽守殿死去以後、駿河守殿以外驕悪の行跡共にて、家中諸侍も疎ミ、果修理殿をしたふゆへ是を気遣、終に修理殿を殺し、其方人として大名十余人殺さる、
…二男ハ清水大蔵少輔とて三万石計領知せられしか、駿河守殿仕置やすからす思はれ、一栗兵部と云侍に密談をなし、庄内三郡をかたらひ、駿河守殿を押倒すへき心さし有処に、早く是を察して大蔵少輔を不時に殺さる、
 
 このように、[家記]は事件の概要のみの記述に終始し、これに加わって相対峙する勢力は誰と誰なのかは、全く触れてはいない。そこには半左衛門を始めとする下一党の影は無い。永貞は旧主を始めとする勢力の、不名誉に近い行為を書き残すことはできなかったのであろうか。
 慶長十九年(1614)は義光の死から家親への襲封へと幕が開く。それは、里見一族の誅罰、一栗兵郎の乱、そして清水義親襲撃事件へと続き、藩内で抱える不安な材料の積もり重なった時期であった。続いて大坂の陣に於いては、家親は江戸留守居の任を勤め、その時には半左衛門も江戸へと出陣している。

…其時庄内の人数ヲハ土肥半左衛門殿下知たるへしとて、最上殿と供奉し、両度共庄内の人数をハ半左衛門殿引率して江戸へ在城、誠に威勢有し事共也、
 
 しかし、この晴れがましい行動などが、半左衛門の命取りの一因ともなったのかも知れぬ。それは、次のような記述からある程度、知ることができよう。
 
…爰に下対馬が取立召遣し、原美濃と云者、本ハ上方武士にて、加州なとにも小身にて居たりし由なるか、□才を以立身し、対馬より老分になりしゆへ、此時節陣代をも可相勤と存候処に、半左衛門殿に権をとられ不安思ひ、最上殿へ次而を以て密に訴へ申けるハ、云々

 このように、半左衛門の栄達を妬み密告に及んだのは、、計らずも越後以来の同輩であった原美濃だという。続いて[家記]は云うには、一栗兵部の乱にて死亡した下次右衛門の後は、自然と半左衛門の支配下となり、越中以来の譜代の者達を集め謀反の兆しがある。また清水義親にも心を寄せているなどと、讒訴に及んだとしている。そして、これらを真に受けた家親は、

…さらハ土肥を絶すへし、乍去いかにもして不意に討へしとて、先佐賀井(寒河江)と云処へ所替可有之由にて、云々

 として、所替の途中に追手を差し向け、倉津にて一行の襲撃を命じた。そして、ここに半左衛門とその一党の最期を見るのである。

…扠半左衛門殿ハ、四月六日に下対馬養子分たりし下長門と云者と共に、佐賀井へ可被越旨にて、其支度をなし、其時半左衛門殿、若党三十人、弓五張、鉄砲五挺、長柄五本、馬五疋ひかせ、以上八、九十人計にて御越候、此内、藤田丹波、采女方などより添たる者も有之、くら沢と云所にて、下長門ハ先へ通り、半左衛門殿ハ古堂の内へ入、下々ハ昼飯を食し候処へ、近郷に大勢討手を云付置、俄に出て取囲む、半左衛門殿、此程の為体、加様之事可有之と覚悟の上なれば、たばかれぬる事無念千万なから、此期に至りて不及了見次第とて、久敷家人に石黒忠兵衛・島田兵太夫と云者を使にして、我等儀ハ是にて切腹可仕候、下々の事ハ故も無之者ニ候間、助られ候様ニ願所ニ候旨両人行向、云はつるやいなや、大勢鑓にて突すゝめ候を見給ひ、扨ハ是非なき事、下々迄助間敷体也、何も覚悟極候へとて、半左衛門殿長刀を取出、向四人切倒し、今一人柳木の傍に居けるを木共ニ切付、長刀折てたゝよはるゝ候処を、鉄砲にて両股を打抜候故、今ハ叶はしと堂の内へ入、静に切腹したまふ也、行年五十歳計に成給ふと、云々

 このように、半左衛門は己を取り巻く異様な雰囲気を、事前に察知していたようだ。しかし、最期の場にあたり己の死のみの願いは適わずと知ると、僅かな抵抗を示しながらも切腹し果てていった。そして[家記]は続けて云うには、「上下八、九十人も不残討れし也、采女方より遣したるハ、河島三太郎と云者、是も則同死せし也、元和二年四月六日の事也、半左衛門殿御子息十歳に成給ふ男子も此時生害也、女子二人幼少なりしか、何方へ哉覧、逐電有由也」という。
 また同じ日に、他所にて弟の次郎兵衛も討たれ、「是にて土肥殿一家悉く断絶也、天正十一越中弓庄を退去有しより、元和二年迄三十四年の間、主従辺土に流浪し、終に安堵の事もなく一家被果候儀、誠に申も甲斐なき次第也」と、弓庄以来、上杉、最上へと苦楽を共に歩んできた有沢氏は、ここに旧守の悲壮な最期の時を書き残した。
 思うに、この事件の最大の目的は、半左衛門一族の抹殺のみに絞られ、現場に居合わせていなかった弓庄以来の者達には、手を回さなかったことだ。そして事件の後に、有沢采女・栃屋半右衛門・有沢多左衛門、また下氏一族も最上家を退去したことだ。 
■執筆:小野未三

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