最上義光歴史館

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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【本城満茂 (8)】

 また、その遠因として注目すべき点が、小野寺義道の腹心八柏大和守が義道によって誅された事件である。『奥羽永慶軍記』では、これを最上方の謀略としてえがいている。八柏が内通しているという内容の楯岡満茂が発した偽書状を、宛先を間違えたかのごとく義道の舎弟に届けた結果、義道は八柏大和守が裏切ったと信じこんでついに大和守を殺害したというのである。『奥羽永慶軍記』は、その偽書状を全文転載しているが、そもそも早くに改易され、石見に配流された小野寺氏の元に、しかも偽の書状がそのまま残存しているとは考えにくく、八柏大和守が本当に最上方の謀略によって殺害されたものか疑問ものこる。ただ、何らかの理由で忠臣八柏が誅殺されたことによって義道の信望が地に落ち、次は我が身と佐々木春道・西馬音内茂道ら周辺の国人領主達が態度を翻す契機になったとも考えられようか。

 だが、要地湯沢城の城主小野寺孫七郎・孫作兄弟は最上方へと降せず、徹底抗戦の構えを見せた。乱戦の後湯沢城は最上方の手へ落ちたが、城自体のダメージも大きかったようで最上勢は駐留できなかったらしい(注16)。満茂は家臣原田大膳らを周辺に配置して自らは最上へと帰陣した。残った家臣達は周辺の諸城を手に収め、それに呼応する形で十月には六郷兵庫頭政乗が小野寺義道に反旗を翻し、小野寺勢との小競り合いが発生した。ここにおいて、義光は再び満茂を湯沢へと遣わし、湯沢城主として周辺の統治を預けた。

 湯沢における、満茂の給地・その統治手段は詳らかでない。ただ、小野寺の本城横手は目と鼻の先であるから、小野寺勢に対する軍事行動の必要はあったと考えられる。原田大膳を始めとした家臣達を周囲の出城に配置し、また最上方に属した近隣の国人領主達と連携をとりながらその任を果たしたのであろう。同時に、湯沢城落城時の城施設のダメージは大きく、防御施設の復旧は急務であった。満茂は、冬の内にそれを完遂したと伝えられる。また、湯沢城のある上浦郡(雄勝郡)は、天正十九(1591)年に秀吉から公式に最上家の領有が認められており(注17)、公儀権力を背景に同郡の支配権力を確固たるものにしていったのではなかろうか。
<続>

(注16) 『湯沢市史』(湯沢市教育委員会 1965)
(注17) 二月廿六日付氏家守棟書状(「色部文書」)


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