最上義光歴史館
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最上義光歴史館
〒990-0046
山形県山形市大手町1-53
tel 023-625-7101
fax 023-625-7102
(
山形市文化振興事業団
)
メモ
「『連歌の概要』 ―義光の一座した作品に触れながら」 名子喜久雄
「連歌の概要」 ―義光の一座した作品に触れながら
ある時代に隆盛を極めた文芸ジャンルが、時の流れにより、創造のエネルギーを失ってしまうことは、多い。平安時代の物語・中世の軍記は、その代表である。(創造のエネルギーを失いかけても、変質することにより今日まで、人々に何らかの形で継承されたものに能・歌舞伎がある。和歌・俳諧は「改良」されることにより、短歌・俳句となった)
連歌は、創造のエネルギーを失ったジャンルの一例であろう。その発生を、連歌を「筑波の道」と称することからわかることだが、倭建命の東国での御火焼の翁との問答
新治 筑波をすぎて 幾夜か寝つる
かがなべて 夜には九夜 日には十日を
とするのが通例である。(五七五・七七の歌体でない所から、「万葉集」巻八の家持と尼の唱和とする考えもある)
五七五(長句)と七七(短句)のいづれが先行しても良いが、前記のように1セットで終わるものを「短連歌」という。先に詠まれた句(「前句」)に、付けられた句が「付句」である。その付句に、次の付句を続けて、その連続が、一定の句数(三十六・五十・百)になったものを「長連歌(鎖連歌とも)」と称する。
前記の倭建命の例のように、連歌は和歌よりは、会話性・問答が強かった。鎌倉期以後中世を通じて大流行するが、好者は無論のこと、連歌の名人が、宗祇・紹巴の如く身分卑しき者から輩出する。
ところで、長連歌を人々が詠む折に、安易な句作を嫌って、様々に制約を加えるようになった。その制約を、まとめたものが「式目
」である。「式目」は、時代の中で一部手直しが行われた。それが「新式」である。これらを心得ていなければ、連歌の場(座)に居ることは難しい。
「式目」を人々に教授したりした、連歌の職業的名人が宗匠である。連歌の座を差配するだけでなく、源氏物語・古今集などの古典文学の解釈の伝承者でもあった。
「連歌新式」最上義光注 里村紹巴加筆(当館蔵)
さて、義光も一座した「慶長元年(1596)十二月二十五日 賦何舩連歌」を素材として、いささかながら、連歌の作り方を略説したい。
発句(第一句目)は、
雪晴(れ)て行く水遠き末野哉 唱叱
詠作の季節(冬十二月)に応じて、眼前の景を詠みこむ。詠み人は、主客が普通。貴人の場合もある。
脇句(第二句目)は、
風さえつつも明(け)渡る山 光高
発句の世界を受け、季節を同じくして、かつ、発句に詠まれていないもの(「風」と、「末野」の反対方向にある「山」の明け方の時間)を詠む。普通は亭主が詠者。(光高が亭主かは存擬)
第三(第三句目)は、
引(く)雲にはなるゝ月の影澄(み)て 光
第三句目を、特に第三と称す。第四句から最後の句(「挙句」)の直前までを、一部を除き、「平句」という。第三は、発句・脇句の世界を転じ、作中世界を広げる。風に雲が動き日が姿を見せる。空に視線が移った。貴人(ここでは義光・「字名「光」)が詠む。
発句が貴人の時は主客。
「賦何船連歌」初折の表部分(当館蔵)
このように連歌の世界は展開する。挙句で世の千秋万歳を寿ぎ、連歌は終わる。
※現在入手しやすい参考書
「連歌辞典」 廣木一人 平成22年 東京堂出版
「連歌とは何か」 綿抜豊昭 平成18年 講談社
(後者は、義光についての言及もある)
■執筆:名子喜久雄(山形大学名誉教授)「歴史館だより№20」より
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最上家と最上義光について
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最上義光連歌の世界② 名子喜久雄
最上義光連歌の世界②
66 かへる馬屋はのるにまかする 紹由
67 あかずしも狩場の道の暮れわたり 義光
68 いくかか花にまくらかりけん 紹巴
慶長三年(一五九八)卯月十九日
賦何墻連歌 三ノ折の裏
前句である66の大意は、「(夕暮れ時)道もたどたどしいので、馬屋に帰るのは、馬にのったまま、その歩みにまかせる」ほどである。
この句の背景には、「韓非子・説林上」の「老馬の智」の故事がある。春秋の五覇の一人である斉の桓公が、遠征の帰りに山中で道に迷う。その時、もう役にも立たないと思われた老馬を放ち、それに従うことにより帰るを得たとのものである。
和歌においても、この故事はすでに取り入れられている。
後撰集・恋五 思ひ忘れける人のもとにまかりて
よみ人しらず
978夕ぐれは道も見えねどふるさとは もと来しこまにまかせてぞ来る
返し よみ人しらず
979こまにこそまかせたりけれ あやなくも心の来ると思ひけるかな
などの作例がある。
義光はこの前句を受け、「(もっと狩を続けたいのに)すでに狩場からの帰り道は、一面暮れてしまった(さあ、どのようにして帰れば良いか)」ほどの句を付ける。この句にも、「老馬の智」の故事は反映していようが、さらに注意すべき出典があろう。
「伊勢物語・八十二段」がそれと思われる。その大略は、弟・惟仁親王(清和天皇)との皇位争いに敗れ、風雅に生きる惟喬親王と、その縁辺の人々との野遊びの様である。その中の一人に業平がいる。淀川河畔の水無瀬から交野(いずれも、現大阪府北部)で、「狩はねむごろにもせて、酒を飲みつつやまと歌にかかれりけり。…その木(桜)のもとに立ちてかへるに日暮れになりぬ。」すなわち、風雅や狩を楽しむあまり、時間は過ぎさってしまった。
義光の「伊勢物語」摂取は、面影を取る(何となく連想させるほどの意)体のものかもしれない。ただ、68の句を考えると、(その大意は「いったい、幾日、花を求めてその下で旅寝をしていたであろうか」ほど。風流に生きた人の姿である)この推測は、あながち誤ってはいないであろう。
改めて、この推測の裏付となる68の句の背景にある「伊勢物語」の一節を示しておく。
いま狩する交野の渚の家、その院の桜、ことにおもしろし。
これらの情景から「狩」に導かれて「花」の語が触発されたと理解する。義光が「伊勢物語」を念頭に置いたことを理解した紹巴の句作なのである。
■執筆:名子喜久雄(山形大学名誉教授)「歴史館だより№25」より
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「山形城の瓦出現期の様相について」 齋藤 仁
山形城の瓦出現期の様相について
はじめに
瓦は窯業製品であり、胎土に水が浸透し冬季にそれが凍る凍害が発生するため、雪国には不向きの建築部材である。江戸後期の史料であるが、山形は「寒国故御櫓之瓦年々損スル」(「山形雑記」『山形市史編集資料』第64号)と、冬季の気象条件により瓦が消耗すると強く認識されていた。それにもかかわらず、近世初頭の山形城の改修と同時に瓦が採用されるようになり、山形城での瓦採用は、城郭建築に伴うこの時期特有の政治的・社会的判断があったことは想像に難くない。この近世初頭における瓦出現期の様相と、その系譜を探ってみたい。
1 瓦の出現時期
山形城本丸御殿跡で、多量の近世初頭の瓦が出土しているが、多くに被熱の痕跡が認められる(金箔瓦を含む)。これは瓦葺き建物が火災に遭ったことを示しており、その年代がわかれば、瓦出現の時期を考える重要な手掛かりとなる。本丸の火災は、12月7日付最上義光書状に「其上本丸ニ火事出来候」(秋田藩家蔵文書)とあるのが唯一である。これは年号を欠いているが、慶長4年説(『山形市史 年表・索引編』)と同7年説(宮島新一2010年「県下に残る桃山時代の城郭御殿障壁画」米沢市上杉博物館『図録戦国大名とナンバー2』)の両説あり、このどちらかとみてよいだろう。この火災より以前に、瓦は採用されているのである。では、製作年代はどこまで遡るであろうか。山形城の改修は、文禄2年(1593)に最上義光が「うちたて((内館))のほりふしん((堀普請))」(伊達家文書)について家臣に指示していることから、この段階ですでに開始されていた。「うちたて((内館))」は後の本丸を指すとみられる。最上氏時代は他に本丸の火災の記載はなく、現在までの発掘調査で火災の痕跡は一度のみであるため、文禄2年頃に製作された瓦が、慶長4~7年の火災で焼失したとみるべきであろう。山形城の瓦は、金箔瓦を含め、豊臣政権時代に生産が開始されたのである。
2 瓦の系譜
山形城で特徴的に現れる「山文」の軒丸瓦は、京の聚楽第城下町屋敷でも出土している。出土位置は、尼崎本「洛中洛外図屏風」(尼崎市教育委員会蔵)に描かれた最上義光京屋敷と位置的に近く、この瓦は最上屋敷に使用されたと考えられる。聚楽第城下町屋敷は、天皇行幸をひかえて天正19年の京中屋敷替えによって成立した、諸大名の京の邸宅街である。ここで山文軒丸瓦が発案、採用され、本国の山形城への生産へとつながっていくのである。
ところで、最上家の家紋は、足利家の庶流であることから足利家と同じ「丸ニ引両」である。なぜ、瓦の文様に家紋ではなく、「山文」を採用したのであろうか。現在のところ、確たる結論を持ち合わせていないが、京で初めて生産されたのであろうから、京の政治状況が反映したものと考えられる。当時、室町幕府の最後の将軍であった足利義昭はまだ存命であり(1597年死去)、天正15年(1587)に京に帰還したのち、翌年に将軍職を辞し受戒したものの、秀吉から山城国填島に1万石を認められ、京や大坂を住まいとしていた。そのような状況で瓦の紋章を選択する際、足利家以外に「丸ニ引両」の紋を瓦に採用することはありえなかったと推測される。足利義昭は豊臣政権で重要なポジションを占めていたわけではないが、室町幕府将軍家の家紋と同様の紋章を最上家の瓦に採用することを避けたい意図が豊臣政権にあったことは十分考えられる。
また、京都でも出土しているのであるから「山形」「山形城」という地名を示しているわけではない。最近の文献史学の研究で、特に豊臣政権時代に最上義光は「山形殿」と称されていることが知られているが、自らの呼称から「山文」の文様の採用に至ったのであろう。山形城の瓦出現期の様相は、当時の政治状況を色濃く反映しているのである。
■執筆:齋藤 仁(山形市教育委員会社会教育青少年課主幹/文化財保護担当)「歴史館だより№25」より
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大崎夫人の五輪塔
平成26年7月、神奈川県川崎市にお住まいの女性から一通の封書が届きました。
封書には巨大な五輪塔と地輪に刻まれた銘文の写真、そしてそれに係る様々な資料が同封されていました。
巨大な五輪塔の写真は山形県寒河江市の正覚寺にあるもので、最上義光の正室大崎夫人の供養墓という伝承が広まっているものでした。
寒河江市史をはじめ、近年発刊された最上義光に係るさまざまな書籍にも、最上義光の正室大崎夫人の墓所が寒河江市の正覚寺であるように紹介されています。
封書を出された方のお話では、ご先祖さまが慶安四年に「光誉明月」という女性の三十三回忌の供養のために建立したものであるのに、いつのまにか大崎夫人の供養墓として語られ、大変迷惑している。ぜひ相談に乗ってもらいたいというものでした。
爲卅三年
光誉明月
地 菩提
施主寒河江
片桐六左衛門
慶安四年
八月一日
『寒河江市史』の中巻には
「正覚寺の境内の片桐家の墓地に高さ二四〇センチメートルに及ぶ巨大な五輪塔があり、大崎夫人三十三回忌に建立したといと伝えるが定かでない。」
とあります。
大崎夫人に関しては様々な伝承がありますが、いまのところ確かな記録がありません。菩提寺も墓所もわかりません。もしかすると京都にあるのかもしれません。
大崎夫人の菩提寺=正覚寺…いつの時代にこのような伝承が生まれたのでしょう!?
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「義光はなぜ「虎将(こしょう)」と呼ばれてきたのか」 胡 偉権
「義光はなぜ「虎将(こしょう)」と呼ばれてきたのか」
御存知の通り、最上義光は後世に「虎将」と呼ばれている。しかし、そのきっかけは何だっただろうか。
江戸時代晩期の儒者・塩谷宕陰に「山形従役詩」という詩集の中に義光を偲ぶ「雑詠(二首)」がある。そこに「散歩時尋虎将蹤」(散歩して時に虎将の蹤を尋ぬ)と、義光のことを「虎将」と称するわけである。その理由は、義光の官途と関係するものである。
義光は慶長十六年(一六一一)三月に従四位上左近衛少将に叙任された。左近衛少将とは内裏内の警衛、警固を担当する令外の官、いわゆる「六衛府」の中の左近衛府の次官である。むろん、戦国時代になると、官途の実際的意味を持たず、単なる名誉的なものに過ぎないというまでもない。
さて、この「左近衛少将」と「虎賁郎将」との関係といえば、「虎賁郎将」は「左近衛少将」の「唐名」なのだ。「唐名」とは律令制の官職・部署の名前を、同様の職掌にあたる中国の官称にあてはめたものである。
「虎賁郎将」はもともと「虎賁中郎将」の略称であり、その起源は少なくても中国の西周時代までさかのぼることができる。その後、前漢の元始元年(西暦一年)に官職として定着されるようになった。
もともと、「虎賁」とは古代中国において勇士の代名詞であり、「虎賁」の語源を尋ねると、そもそも「賁」とは「奔る」、「勇む」意味で、「虎賁」とは虎が獲物を猛襲する姿を指すものである。後に戦場で敵を果敢に攻撃する兵士の姿を、虎が獲物を襲う雄姿に喩えて転用されるようになったのである。
そして、官職としての「虎賁郎将」の由来を調べれば、周王朝の開国功臣・周公旦(しゅうこう・たん)の著書『周礼』(しゅうれい)に初めて「虎賁」の語が見られる。それによると、遥かなる夏の時代に、「虎賁氏」という官職がすでに存在しており、その職務を簡単にまとめると、以下の内容である。すなわち、
(1)王様が親征、あるいは外出の時、王様に扈従し、その安全を守ること
(2)王様が王宮にいる時は、王宮の内外を警備すること
(3)王様が崩御した後、万が一に備えて、葬儀が終わるまで王宮への各口を警戒し、王様の棺が納められた車を御陵に着くまで守ること
(4)崩御のお知らせを各地に伝達する使者と同行すること
『周礼』の類本の目録に「虎賁氏」が見られる
『周礼』の記事を裏付ける史料はほとんどないため、その真偽を問うことができないが、前漢の平帝は従来の王宮の宿衛部署である「期門郎」を「虎賁郎」に名を改め、その長官として「虎賁中郎将」を設けた。それをきっかけに、「虎賁中郎将」は官職として歴史に登場するようになり、唐の時代まで存在していた。
このように、古来の「虎賁氏」と後の「虎賁郎将」の職務は王様の身柄を守ることであり、いわば王様の親衛隊、精鋭中の精鋭部隊を引率する筆頭といえよう。また、「虎賁中郎将」とも関係する「虎賁」は漢の時代以降、「羽林」(うりん)と共に、帝国の最精鋭部隊の代名詞として史書に随所に見られる。やや煩わしいかもしれないが、「虎賁中郎将」は官職の名で、「虎賁」はそれに従える兵士、あるいは「虎賁中郎将」その人を指す呼称、とお分かり頂けば幸いである。
したがって、「虎賁中郎将」も「左近衛少将」も、王様、日本といえば天皇の警護役を担当する役職であるため、左近衛少将に叙任される義光も当然、日本版の「虎賁中郎将」となる所以である。
また、上述したように、「虎賁」は勇猛の兵士を意味するから、その長官の「虎賁中郎将」最上義光は、あの長谷堂の戦いで最上勢を率いて、撤退中の上杉勢を追撃し、敵の侵略から領国を守るために奮戦することを偲べば、まさに雄々しく獲物を猛襲する虎ではなかろうか。
蛇足だが、従四位左近衛少将は最上氏歴代当主の中でも最も高い官途なのである。そのためか、義光は「左近衛少将」に叙任されてから慶長十九年に没するまで、しばしば「少将出羽守」、「少将」を署名として使っていた。彼本人もよほど気に入ったようだ。
■執筆:胡 偉権(歴史家/一橋大学経済学研究科博士後期課程在籍生)「歴史館だより№23」より
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「古河藩土井家における鮭延越前とその家来達について」 早川和見
「古河藩土井家における鮭延越前とその家来達について」
元和八年八月最上家改易事件後、山形藩主最上義俊の重臣達は全国の諸藩に身柄を預けられている。老中土井利勝(下総佐倉藩主)には、鮭延越前秀綱、新関因幡久正の二名が預けられた。この小論においては、最上家重臣鮭延越前が土井利勝に預けられた後に、その家臣として召し出されているが、これらの経緯について古河藩土井家史料を中心に、紙数の許す範囲で考察してみたいと思う。
鮭延越前秀綱、新関因幡久正の両氏は元和八年八月の最上家御家騒動後、土井利勝に身柄を預けられた。この期間の出来事については、鮭延秀綱の庶子で、後に同家来に列した森川弥五兵衛の子孫が遺した森川系図によれば、秀綱は幕命により預期間中は江戸本郷宿に身を寄せており、妻、嫡男秀義に先立たれており全くの単身状態であり、身の回り世話をする者もなかったという。このため自身の身の周り世話のため、在郷の娘を雇い入れている。
秀綱はこの在郷の娘との間に元和九年男児を設けている。しかしこの男児は嗣子とはせず、出生地に因んで『森川』姓を名乗らせ秀綱側で引き取っている。この男子は後に寛永一〇年古河城下で元服、森川弥五兵衛と称し、秀綱の家来に列している(拙著 山形最上家と古河土井家について )。 もう一方の新関因幡については全く何も伝えられていない。同氏も鮭延氏同様で、一時江戸本郷宿に居住していたのであろうか。
元和八年土井利勝に預けられた鮭延越前秀綱、新関因幡久正の両名の預期間はほぼ一年であって、翌九年には正式に御赦免となったが、その行き先が注目されたのであった。
この時二代将軍秀忠に鮭延秀綱に対し、ニ男駿河大納言忠長の附家老で招聘しようとしたが、これには秀綱自身が固辞したと伝えられる。その後、鮭延秀綱と将軍秀忠、土井利勝との間で、どのような遣り取りが展開されたのかは伝えられていない。しかしその後将軍秀忠は、腹心の土井利勝に対して知行五〇〇〇石で、鮭延秀綱を召し抱えるように命じたことが、近年研究から明らかとなっている(拙論 最上家改易事件に関する一考察 野木神社秘蔵史料を中心にして 古河郷土史研究会会報三一号)。
これは元和九年当時、老中土井利勝は下総佐倉藩主で知行六五二〇〇石であったため、この身代ではとても鮭延氏を知行五〇〇〇石で召し抱えることは事実上困難であったことは、二代将軍秀忠自身も事前に承知していた。そこで鮭延氏の知行五〇〇〇石分は召し抱えると同時に、別途これと同高を将軍が加増するということで、利勝も了承したことが分かっている(拙論 鮭延越前研究ノート(4) 古河藩土井家時代の鮭延越前について 古河郷土史研究会会報四九号)。
なお新関因幡久正も同時に土井利勝は知行一〇〇〇石で召し抱えているが、これには将軍秀忠はこれに了承のみで特に介入していない。
この時鮭延氏は知行五〇〇〇石で待遇は客人分で、一方の新関氏は一〇〇〇石で御組頭(家中では家老の次ぐ要職)であった(拙著 山形最上家と古河土井家について )。
この当時の土井利勝家臣団は戦国時代の軍事形態を色濃く残しており、後世の藩経営を主体とした藩体制とは大きく異なる。城代は藩主利勝の同母弟の土井内蔵允元政で知行三〇〇〇石、筆頭家老は寺田與左衛門時岡二〇〇〇石で、この二名がまさに利勝の腹心で、利勝に対する影響力も行使できる人物でもあった。この当時の土井利勝の主要家臣数は知行一〇〇以上の者が一二〇名前後とみられている。当時はまだ戦時体制が色濃く、その家臣のほとんどが平士級で三〇〇石未満であった(拙論 土井利勝研究ノート(7) 老臣寺田與左衛門について 古河郷土史研究会会報四四号)。 しかし残念ながらこの当時の分限帳は伝えられていない。
利勝の家臣団・藩体制が大きく変貌するのは、寛永二年九月に知行高が一挙に倍増となる一四二〇〇〇石となってからのことで、これに伴い利勝は、自弟の土井内蔵允元政には三〇〇〇石から八〇〇〇石へと、筆頭家老寺田與左衛門時岡が二〇〇〇石から六〇〇〇石へと大幅な加増を行っている。ここに至って土井家内では、鮭延氏の五〇〇〇石を超えるものが出現して来たのである。この時新関氏の役職は組頭のままであるものの、一〇〇〇石から一八〇〇石へ、さらに二三〇〇石へと加増されている(拙著 山形最上家と古河土井家について )。
実はこの時点で主要家臣のほぼ全員が大幅加増になったことと、家臣団の役職が藩経営に即応した複雑細分化なものとなり、藩士の階層も一斉に多極化していった(拙論 土井利勝研究ノート(7) 老臣寺田與左衛門について 古河郷土史研究会会報四四号)。
これらの現象を前提にして近年、鮭延越前秀綱が元和九年から没する正保三年六月まで、実に二三年の間(土井家自身知行高の変遷や藩主の交代などもあり)、秀綱自身の役職も「客臣」のままで、しかも知行「五〇〇〇石」もそのままで全く変更されなかったのは、新関因幡が加増されたことをみても、真に奇異なことと言えるであろう。
これは土井利勝が鮭延氏を召し抱えるに当たり、当時の二代将軍秀忠が仲介し指示したこともあって、これを召し抱えた土井家一存のみでは、勝手に変更が困難であったことと解釈される(拙論 鮭延越前研究ノート(4) 古河藩土井家時代の鮭延越前について 古河郷土史研究会会報四九号)。
鮭延秀綱の晩年は、嫡男秀義が最上家出仕時代に早世したため嗣子がおらず、さらに元和九年に男子を設けたが嗣子とはせず、元服後家来に列し「森川」姓を名乗らせている。嫡男秀義は既婚したことから男子(秀綱の内孫)がおり、この嫁と孫も秀綱とともに古河城下大堤にいたことも今日分かっている。古河城下の秀綱には、嫡男秀義の遺児が健在であったが「籠宮」姓を名乗らせ別家としている(拙論 鮭延越前研究ノート(2) 籠宮家について 古河郷土史研究会会報37号)。秀綱は自ら意思により当代で絶家としたが、古河時代周囲には出羽時代からの家来達はそのまま扈従し続けた者たちがおり、土井家へ陪臣として奉公していた。
秀綱は正保三年六月古河城下にて八十四歳にして没。その屋敷跡には家来達の手で菩提寺『鮭延寺』が創建され、同寺も秀綱の墓碑も現存している(拙著 山形最上家と古河土井家について )。
○鮭延越前墓所
○鮭延家の守本尊「聖観音立像」(鮭延寺所蔵)
恐らく秀綱の家来十四名にとっては、主君鮭延秀綱が土井利勝のもとに召し出された元和九年から正保三年六月に主君鮭延氏が没したまでの、家来達は土井家には陪臣として奉公したが、これがある意味で最も寛いだ充実した期間でなかったか想像している。秀綱の家来一四名は主君鮭延氏死去後、土井家と予てよりの約束通り正保三年七月一五日古河藩主土井利隆(一三五〇〇〇石)に直参として召し出されている。この時十四名の家来の中では、岡野九郎左衛門が家老であったことから、土井家ではこの家格をそのまま認め彼のみ三〇〇石鑓奉行で遇し、残りの十三名は二〇〇石から一五〇石は平士級であった(拙著 山形最上家と古河土井家について、拙論 古河城下における鮭延氏の家来動向について 山形県地域史研究四〇号)。
さて、鮭延氏は後嗣をたてなかったことから、跡は土井家に直参に召し出された家来十四名に託された。それでは古河藩土井家臣が鮭延氏の旧家来に好意的で、彼らに居心地が良かったかといえば、これは全くの別問題であると言える。
というのは、古河藩主土井家の系譜は徳川家三河時代からを継承しており、また家中には近畿圏出身の有力家臣が多く、当時この地域が国政の中心地、先進地であり、かつ又経済的にも豊かであったことから、これに優勢感を持つ家臣が多かったように思われる。 反面関東以北は未開地で経済的にも概して豊かではなかったことで、出羽最上郡出身の旧鮭延氏出身の家来などは…土井家家中において一段格下と偏見の目で見られたのではないかと、今日想像している。さらに旧鮭延氏出身の家来達は、土井家内では新参者で特に頼るべき後ろ楯となる有力家臣もなかった。土井家家臣としてまさに真価が問われる時節が到来しつつあったのである。
■執筆:早川和見(古河郷土史研究会会員/山形県地域史研究協議会会員)「歴史館だより№23」より
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