最上義光歴史館

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 美しい山々に囲まれ、四季折々の豊かな自然の中で育まれてきた私たちのふるさと山形。城下町や商業都市として、さらには県都として、その時々の人々の営みや思いを刻みながら、わがまちは、連綿と栄えてきました。
 この山形の礎(いしずえ)を築いた人が斯波兼頼です。今年は、兼頼が山形に国入りしてから、650年の記念の年に当ります。斯波兼頼とはいったいどんな人だったのでしょうか。その人物像に迫ります。


「絹本著色 斯波兼頼像」(山形市指定有形文化財) 光明寺蔵 

【南北朝の動乱と若大将斯波兼頼の登場】
 斯波兼頼は、源氏の名族足利氏の流れをくみ、八幡太郎の名で知られた源義家から11代目の子孫に当ります。「斯波」の姓は、先祖の足利家氏が現在の岩手県紫波町を根拠地としたことによるものです。
 元弘3年(1333)に鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇による古代の天皇政治が復活しました。世にいう「建武の新政」です。しかし、それもほんのつかの間のこと。足利尊氏が反旗をひるがえし、わが国は南北朝動乱の時代に突入していきます。
 建武3年(1336)ころに、まだ10代前半であった斯波兼頼が、北朝勢の一方大将として、奥州の太平洋側の戦場に姿を現わします。その後兼頼は、父家兼とともに伯父斯波高経のいる北陸方面に移り、越前(福井県)に逃れていた南朝勢の大将新田義貞の軍勢と対峙しました。
 やがて新田義貞は越前藤島で討死します。義貞の首級をあげたのは、斯波兼頼配下の氏家重国であったといいます。彼はこの時、義貞が佩(は)いていた鬼切・鬼丸という源平重代の太刀二本を、高経のもとへ差し出しています。そのうちの鬼切が、どういうわけか兼頼の手にわたり、以後最上家の家宝となったと伝えられています。


「太刀 銘 安綱 (号鬼切)」(重要文化財) 北野天満宮蔵 

【出羽北朝勢の総指揮官として山形へ入国】
 延文元年(1356)に、兼頼は奥州大崎(現在の古川市近辺)から出羽最上郡山形に入部しました。正式な役職名はハッキリしませんが、按察使(あぜち)将軍または羽州管領(探題)といわれています。当初は寒河江大江氏をはじめ、南朝勢力が根強く残っていたようです。
 では、山形あたりの様子はどうだったのでしょうか。当時の社会状況を物語る貴重な史料が、岩波の石行寺に伝えられています。その『大般若経』の奥書には、次のような記事があります。長引く戦乱による民衆の飢えと渇きや、諸国に疫病が流行し、身分の上下なく多くの人が死んでいる悲惨な状況などです。そこからは、世の乱れを嘆き、信仰にすがってひたすら平和を祈念する、私たちの祖先の姿をうかがい知ることができます。
 入部した翌年の延文2年、兼頼は山形城の築城を始めます。山形を政治の拠点とするためでした。その位置や規模については明らかではありませんが、現在の二の丸内あるいはその外の北東区域であろうと見られています。

【政治家として人間としての兼頼】
 将軍足利尊氏や、幕府の中枢にあった伯父斯波高経の権威を背景に、兼頼は南朝方の諸将や豪族をしだいに味方にしていきました。
 兼頼の事業で最も目立つのは寺社の復興です。立石寺根本中堂・宝幢寺・千手堂の吉祥院・六椹八幡神社・熊野神社をはじめとして、多くの寺社が兼頼によって修復再建されたと伝えられています。
 こうした宗教政策によって、民心の安定を図り、また縁組などをとおして、できるだけ武力を使わずに、北朝・室町幕府の勢力を拡大していきました。兼頼が山形・天童・寒河江など、いわゆる現在の村山地方の一部を支配下に治めるまで、実に15年あまりの年月がかかっています。
 晩年の兼頼は、高名な遊行上人他阿元愚(たあがんぐ)の布教に感動して、自ら時宗の僧となり、其阿(ごあ)の法名を受けました。家督を嫡子直家にゆずり、城中に道場を開いて念仏三昧の余生を送りました。この道場が後に光明寺となります。
 南北朝の戦乱と足利一族の抗争という、修羅の時代を生き抜いてきた兼頼。康暦元年(1379)、兼頼は一心に阿弥陀仏を念じて浄土に往生しました。山形在住23年、享年64歳でした。
 兼頼の子孫は、267年間13代にわたり山形を治め、11代最上義光の時に57万石の大大名になりました。彼は現在の山形市の基盤をつくりました。だが、元をたどれば、山形の街は斯波兼頼という名将・名君によって開かれたことを、未来の山形のためにも、私たちは忘れてはならないでしょう。

■執筆:布施幸一氏 「広報やまがた 平成18年9月1日号」より転載

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