最上義光歴史館

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 先日、徳島市在住の最上家ゆかりの方から、書簡や連歌などの資料および刀剣を山形に預けたいとのお話をいただき、連歌を専門的に研究されている山形大学の先生とともに当館学芸員が徳島のご自宅に伺いました。計100点近い資料で、先に文書類だけを山形に送り、詳細を調査しているところです。特に連歌関係の資料には貴重なものもありました。
 そんな折、今年の山形県の高校入試の国語の試験では、連歌にかかわる出題がありました。しかも古文ではなく現代文で「AIと連歌を巻く」という題の評論です。歌人で細胞生物学者でもある永田和宏さんが「京都新聞」の日曜のコラム「天眼」に執筆されたもので、2023年11月5日に掲載されたものです。まずはこれを高校入試にした出題者のアンテナの高さに脱帽してしまうわけですが、話題がAIであることもさることながら、そのタイトルにある「連歌を巻く」という言葉にも受験生は面喰ったのではないかと思います。
 以前この館長日誌でも、連歌とAIについて少々触れたことがあり、そこではAIとからむのは何年か先の話かな程度の認識でしたが、永田さんは「AI と連歌を卷いてみませんか、という魅力的なお誘いをいただき、先日東京でその会に参加してきた。」とのことです。ちなみにこの「巻く」というのは、連歌を行うことを言い、詠まれた歌をすべて懐紙に記録しそれを「一巻」と数えることに由来します。ついでに、連歌の途中のことを「まきかけ」といい、なかなか句を続けられないことを「まきあぐね」といいます。
 さて、その出題文では、「AI生成文は、ある言葉が来た時に次にどんな言葉が続く確率がもっとも高いかを割り出してつくるので、既視感があるとか優等生的などと評される。しかし、短歌や詩では.そのような言葉の続き具合をもっとも嫌がる。そして、私たちが持つ言葉は、現実の世界に対応するには隙間だらけなのであり、あえて表現されなかったものにこそ思いを致す、実はそれこそが「読む」という行為なのである。隙間を読むことが大切なのである。その意味で、創作という行為、そして読みや鑑實という行為は、人にしかできないものと言ってよい。」としながらも、「その連歌であるが、当たり前の言葉の付け方にならないよう確率の低い語の選択を許すなど、いくつかのチャレンジをその場で模索しながら、会場と一体となって進行した。圧倒的なAIの進化の速度を考えると、一年後に対戦してみれば、結構、互角の応酬が期待できるのかもしれない。」と結びます。
 連歌には、その決まり事をまとめた「式目」があり、これは言ってしまえば連歌をつまらなくしないためのルールなのですが、そこには使用回数が限られる言葉やら、月や花の句がくる位置とか、同じ字や同じ景事を続けないなどとあります。ただ、こうしたことに従うだけなら、むしろAIのほうが間違いないでしょう。しかし語句の選択にあっては、確率の低い語を選ぶだけではきっとだめで、これは芸人さんで言えば、そのままのオチばかりのギター侍ではなく、かと言ってコウメ太夫の次元ではどうなのかということなのです。
 さらに連歌の展開にも課題があります。例えば発句(1句目)は季語を詠みこみ、脇句(2句目)は、発句の方向性を変えないように添えるように付け、第三(3句目)では、発句と脇句を転じ季節も変えて詠みます。また、連歌にも序破急があり、連歌を記録する懐紙は百韻の場合4枚用いるのですが、1つ目(初折)は序としてしとやかに、2つ目(二折)はさぬき句という賑やかな句を、残り(三折・名残折)は逸興ある句をとなっています。句と句の関係までならある程度プログラム化できそうですが、序破急となると全体の流れが見通せるものが必要となり、どのような句が「序」でどのような句が「急」なのか、これも単なる語句の出現確率の問題だけで対応できるものとは思えません。それでもそのうちAIは、「しとやかな句」とか「賑やかな句」などをなんとか形にしてしまうような気もします。


(→裏館長日誌に続く)