最上義光歴史館

最上義光歴史館
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 当館のようにささやかな博物館(しかも未指定)であっても、各地の博物館からさまざまな展示企画のポスターやチラシを預かります。米沢市の上杉博物館からは特別展「上杉氏と鷹と馬」(前期9月7日〜10月6日:後期10月12日〜11月10日)の案内をいただきました。その説明には「鷹や馬は、大名と室町幕府や豊臣政権、江戸幕府との関係のほか、大名同士の関係においても重要な役割を果たしました。」とあり、最上も伊達も馬や鷹を秀吉や家康に贈っています。今で言うなら、馬は車、鷹はゴルフ、と解せば理解いただけるかと。芸能人同士で車やゴルフクラブをやったりもらったりという話を耳にしますし、某メジャーリーガーは同僚の妻に車を贈り、某総理大臣は某大統領に金色のゴルフクラブを贈ったりもしています。まあ、それはさておき、この「鷹狩り」に絡んだ歴史的な出来事として「秀次事件」というのがあります。
 豊臣秀次は永禄11年(1568年)、秀吉の3つ上の姉の長男として生まれました。秀次が関白を世襲したとされるのが、天正から文禄と元号が改元された1592年とのこと。ところが継承が済んだ後に、秀吉の側室である淀殿の懐妊が判明、文禄2年(1593年)8月3日に大坂城二の丸で秀頼(拾)を産みます。秀吉は嫡男である秀頼を溺愛し、9月4日に秀吉は、日本を5つに分け、そのうち4つを秀次に、残り1つを秀頼に譲ると申し渡し、また、生まれたばかりの秀頼と秀次の娘(八百姫)を婚約させるつもりでもあったそうです。
 そこからすると自分の跡目については、ちゃんと秀次を間にはさんでいたと思われたのですが、文禄4年 (1595年)6月末に突然、関白秀次に謀反の疑いをかけます。「鷹狩りと号して、山の谷、峰・繁りの中にて、よりより御謀反談合とあい聞こえ候」というものです。これにはなんとなく伏線もあって、鷹狩りと言えば家康というくらい、家康と鷹狩りとは切っても切れない関係で、一方、奥州は鷹の産地としても知られ、最上も伊達も家康に鷹を贈るなどして親交を築いています。 
 さらに秀吉は6月28日に秀次を勘当、その後、高野山へ追放します。7月13日に次々と家臣が切腹。秀次は7月15日に切腹、いわゆる「秀次事件」が起きます。この7月15日には、福島正則・池田秀雄・福原長堯の3名の検使が兵を率いて高野山に現れ、秀次に賜死の命令が下ったと告げたのでしたが、秀吉が切腹を命じたかどうかについては確たる文書がなく、近年、異説も唱えられています。本当に謀反を起こしたのであれば切腹ではなく、斬首や磔などが科されるはずであり、また、家臣が切腹したのにもかかわらず切腹させられたり、高野山行が出家であるなら切腹すら求められることはない、まして関白には、というような理由からです。つまり秀吉は、秀次の「出奔」を「追放」に、「無実の自害」を「切腹命令」に改ざんし、秀次を「天下の大罪人」とするためにその一族を殺戮したのではないかと。8月2日には義光の娘駒姫を含む秀次の妻妾や公達39名が三条河原で処刑されました。
 最上義光や伊達政宗も、秀次が奥羽に下向した際に接近したとして疑惑をもたれ、秀次の邸宅となっていた聚楽第に拘禁され厳重な取調べをうけました。義光は、娘を侍妾にした経緯などについて、また政宗は。かつて伊達家に仕えていた粟野秀用が秀次の側近であり、政宗と通じていたという疑義です。さらにこの聚楽第も8月から徹底的に破却されます。
 で、ここからちょっとしたミステリーなのですが、同年8月、伏見の徳川邸前に何者かの手で高札が立てられ、徳川の留守居衆から秀吉のもとに差し出されました。高札には、政宗と義光が三人の普請奉行をそそのかして、秀吉を普請場で殺させ、「三人の御奉行をば国大名になし、西三十三ヶ国は義光、東三十三国をば政宗支配、天下を分持になさんと云計略あり」とありました。
 これに対し秀吉は、「義光と政宗が金子四十枚を出し、京都室町と伏見京町に二十枚ずつ掛け置いて、高札を立てた者が名乗り出たら、この金子は勿論、知行地も最上.伊達双方から望み次第に下される」としましたが、申し出る者はなかったといいます。秀吉は「此両家をば世上にてにくむと見得たり」と言いながらも、この高札がきっかけとなり、8月14日、最上義光と伊達政宗は赦免されました。さて、このような高札をたてたのは誰なのか、その目的は何なのか、なぜ家康邸の前に立てたのか、そして誰が得をするのか。皆様の推理はいかがでしょうか。

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