最上義光歴史館

最上義光歴史館
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 最近、戦国人物伝「最上義光」がコミック版日本の歴史第90巻(ポプラ社刊)として出版されました。コミック版ということで、最上義光もようやくメジャー入りを果たしたのではないかという気がします。当館でも税込1,320円で販売しております。
 さて、最上義光の好物は鮭ということで、この本の冒頭と終盤に、鮭をやり取りするシーンがあります。冒頭の1561年、妹・義姫の婚礼の祝い品として、義光が妹に鮭を手渡すと、妹は「兄者は本当に鮭がお好きなのじゃな」と言うところから物語は始まります。そして終盤の1610年、敵方であった鮭延秀綱が家臣となり鮭を持参したところ、「鮭延が鮭を……くっくっくっ」と義光が喜ぶという、わかるような、わからないような伏線回収で物語は終わります。
 実際、鮭をやりとりしたという文書は残されているのですが、当時、世間一般的に贈答品として鮭はよく用いられており、義光が特別に鮭に執着していたわけではないようです。にもかかわらず、羽州を評定するとして義光が庄内を攻めたのは、鮭が採れる川や海を得んがためだある、との説が流れていて、これは全くのフェイクというか、少なくてもそんな文書は見当たりません。
 では、その説明を少々。
 まず、鮭延秀綱が家臣となった経緯ですが、最上義光は庄内進出にあたり、現在の真室川町にある鮭延城を攻めます。城主の鮭延秀綱は一度は抵抗したものの降伏。しかし、領土を安堵されたため最上義光に恭順し、鮭延城は庄内攻略の拠点となりました。鮭延秀綱は長谷堂城の戦いでもめざましい活躍を見せ、その論功により1万1500石が与えられました。義光の特徴としては、単に敵をせん滅するだけでなく、これぞと人物については、敵であっても味方に引き込んでおり、まさしくこれは将棋と同じ、取った相手の駒を自分の持ち駒とするという感じです。
 また、山形県は古くから鮭の産地として名高く、最上川やその支流は鮭の遡る川として有名です。鮭延城のあった真室川町を流れる「真室川」は、途中「鮭川」に合流し、「最上川」へとつながります。この「鮭川」はその名のとおり、古くから鮭の遡上が見られた河川で、当時、庭月城があった現在の鮭川村を流れています。庭月城は鮭延城と同じく天正9年(1581年)に義光に攻め落とされました。
 ※この度の豪雨災害により被災されました最上川・鮭川流域の皆様には、心よりお見舞い申し上げます。
 さて、ここで鮭のお話も少々。
 当館に隣接する山形美術館(以下、「山美」)では、高橋由一の「鮭図」を収蔵しています。これはあの東京芸術大学大学美術館(以下、「芸美」)の「鮭図」とほぼ同じ図です。現在、高橋由一の「鮭図」は3点あり、あとの1点は笠間日動美術館(以下、「笠美」)にあります。
 この3点全てが同じかというと、鮭の身の切り取られ方や、干し具合が異なります。見分け方としては、芸美のものは、腹びれの手前まで切り取られ、山美のものは腹びれの先まで切り取られ、笠美のものは片側の半身全て尾まで切り取られ荷札もついています。身びいきで言わせてもらえば、山美の鮭がふっくらとして一番おいしそうです。
 さて、この絵がなぜ有名なのか、なぜ題材が鮭なのかということですが、まず、有名であるのは、油彩画で最初の重要文化財となったからです。それは油彩という日本では新しい技法により、本物そっくりの描写がなされていたからです。また、鮭というのは実物を誰もが知っており、写実を知らせるのにちょうどよく、義光の時代のように当時も、鮭が贈答品として用いられており、実物ではなく実物と見紛う絵画を贈るという気持ちが働いた、とも言いわれます。 
 さて、山形美術館では今年3月に、「鮭図」のアクリルキーホルダーを製作しました。初のオリジナルグッズのため、まずは3月に30個を売り出すと、「リアルさ」と「かわいさ」の同居した形がSNS上で話題となり、すぐに完売。5月に100個を追加で納入した、という記事が読売新聞に出ていました。
 一方、今年5月に、東京藝術大学のギャラリー兼ショップでは、「由一補完計画」と称し、鮭に切り身を「補完」した彫刻作品を、立体作家ねがみくみこ氏が発表、あわせてイラスト化した作品をプリントした弁当箱とトートバッグとTシャツを販売。それらを身に着け公園でお弁当でも、という記事が読売新聞デジタルコンテンツで配信されていました。それにしても美術館も新聞社も、切磋琢磨というか、中々な戦況にあるようです。

( → 館長裏日誌へ続く)