最上義光歴史館

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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【氏家守棟 (2)】


 そもそも、氏家家はどのようにして出羽へ入り、最上家の重臣となったのであろうか。暦応二年三月廿日発給の「氏家十郎入道注進状案」(注4)には、斯波兼頼が奥羽に下向した際、若年であった兼頼を代官として補佐したのが氏家入道道誠であるという。また、「成沢系図」には、道誠の三男で重邦の弟に重直という者がおり、その子孫が最上の執事を世襲したと記している。「注進状」は、年号の記述に整合性が取れていない点があり、また「系図」は該当する記述を補強する史料に乏しく、内容をそのまま採ることは危険である。しかしながら、氏家道誠は建武四年正月廿七日付(注5)で相馬胤頼へ対し軍勢を催促していることや、同年二月五日付書状(注6)で武石四郎左衛門へ対し亘理郡の知行地に関わる事案を差配している事から見ても、この時期氏家道誠は奥州へ下向し、斯波氏の代官として実務を遂行している形跡が明確である。以上の状況を勘案すれば、最上氏に仕えた氏家氏は氏家道誠一族の子孫と捉えてよいだろう。

 それ以降、十四世紀半ばから享禄年間までの約百八十年間、氏家氏の動向は詳らかでない。ただ寛正六(1465)年から文明十八(1486)年までの武家方記録である『蜷川親元記』にその名が登場するのみである。寛正六年五月十二日条(注7)に「羽州探題内、氏家伊予守宗政、漆十五盃進之」とあり、十五世紀中盤段階においても最上家内で有力家臣としての位置を維持している事が見える。その後しばらく史料の上から氏家氏の動向を探る事は難しいが、元禄十五(1702)年に成立した『伊達正統世次考』天文十二(1543)年九月十二日条(注8)に伊達稙宗が、長谷倉(支倉)氏に対して氏家と綿密に打合わせて対処せよと申し送った記述に「氏家越山来。緊切兵儀最可然。」とあって、氏家が笹谷を超えて出陣した様子が描かれている。またその注釈に「今按、氏家者最上宿老氏家伊予某也。非大崎岩手山氏家也。」とあり、既にこの時期近隣の勢力から「氏家は最上の宿老である」と認識され、また実際に主君である最上義守から最上家の軍事・外交面で主要な役割を任せられる状況が多かったと考えられる。

 天文十三(1544)年四月七日条(注9)にも「最上修理大夫義守贈書…余諸自氏家伊予守可申送之。」と稙宗が石母田に入り、勝利した事を祝する内容の書状を最上義守が発給したのに伴って氏家も添状を発給したかのような記述も見える。さらに天文十五(1546)年六月七日条(注10)にも「特承義守為自代、差遣氏家伊予守谷柏相模守。」と、この伊達家内乱において稙宗派であった上郡山常陸介景軽所領羽州小国に最上義守が軍を差し向け、名代として氏家伊予・谷柏相模両名が赴いたとの記述が見られる。

 最上家の重鎮として活躍した氏家伊予守は、最上義守が伊達家家老牧野弾正忠へ宛てた元亀元(1570)年五月十五日付書状(注11)の中で、「さてヽヽ此口之儀者、氏家存命不定之刻及候条、閣諸事之不足、親子令和与候」と病床にありながらも義守・義光親子の関係修復を仲介しており、天文十五年段階から引き続いて宿老的ポジションを維持し、主君の後嗣問題に関して仲介を為せる発言力を有していたことが注目される。しかしこれ以降史料上に氏家伊予守の名は確認されず、恐らくこの頃に没したのだろう。
〈続〉

(注4) 「相馬文書」暦応二年三月廿日付氏家道誠注進状案(『山形県史』古代中世資料1)
(注5) 「同」建武四年正月廿七日付氏家道誠軍勢催促状(『同』)
(注6) 「同」建武四年二月五日付氏家道誠施行状案(『同』)
(注7) 『蜷川親元記』(『山形県史』古代中世資料2)
(注8) 『伊達正統世次考』(『同』)
(注9) 『同』(『同』)
(注10)  『同』(『同』)
(注11) 「伊達家文書」元亀元年五月十五日付最上義守書状(『山形市史』史料編1最上氏関係資料)


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