最上義光歴史館

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関東に於ける最上義光の足跡を求め ―特に関ヶ原戦以後に限定して―

【一 はじめに】

 ある人は「残忍義光」という。それは山形郷土史会に絶大なる影響力を持ち、信ずべき『公史』に義光憎しの風評を植え付けた、一部の学者の仕業であった。義光の反体制側にある者達への採った行動を、これを義光個人の為せる業として、最大の非難の言葉を浴びせたのではないか。
 時は戦国の世であったことを、忘却なされたのではなかろうか。羽州の一武将「残忍義光」の為せる業が、それが中央を目指す武将達の、避けては通れない過程の一つであることを、認識すべきではなかろうか。時の権力者の豊臣秀吉、そして徳川家康との結びつきが功を奏し、これが慶長五年(1600)の関ヶ原戦に勝利した家康との、長年の友誼関係が実を結び、念願の庄内の地をも掌中に収め、五十数万石の大名に登りつめたのも、これも義光の器量の為せる業として、「残忍」の二文字を償却してもよいのではないか。
 さて、関ヶ原戦から三年後の、家康の征夷大将軍への就任による、大名達の江戸への集中化の中で、義光の羽州を離れての、中央での活躍振りはどのようなものであったろうか。
 しかし、その全貌を捜し出す手立てを、最上家改易とともに諸史料などの離散により、殆ど失うという結果になってしまった。しかし、それでも義光の私的な記録の稀薄さは当然ながらも、多少でも公的な場での動きを追いながら、その晩年期の関東での動きを追って行きたい。
■執筆:小野未三

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