最上義光歴史館

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最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門

【七 伝承の中の半左衛門】

 土肥半左衛門については、現今の多くの刊行物は、越中出身で元は上杉の家臣であったと認識しているようだ。それは今に伝わる多くの軍記類からも知ることができる。その中で増田土肥の半左衛門とする記述は、[奥羽永慶軍記]からの、義光の関ヶ原の役後の小野寺勢攻めに先導役として父と共に参加した時と、翌年春の酒田の上杉勢を攻めた際の、下一党の奮戦の最中に於ける「爰ニ山北ヨリ来リシ土肥半左衛門一陣ニ進ミ」と、二ケ所に見られる。しかし、その後の酒田の攻防戦に度々見られる半左衛門とは、越中土肥の半左衛門のことで増田土肥ではない。
 先に取り上げてはいるが、増田地方の諸資料に云う、「義光公上意ニ而半左衛門殿切腹」とは、どんな落度があって切腹に至ったのか。増田土肥の半左衛門が、義康・義親への襲撃事件のいずれかに、関わりを持っていたからであろうか。しかし、決定的な証しとなるものは何も無い。そして、残された一女は新庄藩戸沢家で土肥の名跡を継ぎ、家名を伝えた。片方の越中土肥は元和二年(1616)四月、子息と共に相果て断絶した。この二つの流れを汲む土肥半左衛門が、それがどのような曲折を得ながら、別人格の半左衛門像を生みだし、どのような形で伝承されてきたのであろうか。
 越中土肥の半左衛門の最期の地の倉津は天童市蔵増の内、当時の蔵増村蔵増楯の内に館址がある。天正の昔、天童氏に仕え後に最上氏に降った倉津安房守守俊の領地であった。子の日向光忠(親信)の時、最上郡小国に移り小国を姓とする。その一族かと思われる小国摂津が、「蔵増 高八千石」と分限帳に見えており、半左衛門の最期の地は、小国氏の勢力圏の内であったのだ。
 この地に、「土肥半左衛門」にまつわる伝説が残っている。その墓と称される石塔などが現存している。その語りとして『最上四十八館の研究』(丸山茂・昭十九年)から、少し拾ってみよう。

…天正八年最上郡小国城主細川三河守が滅亡した時、その封土の全部を安房守嫡子が頂戴、小国日向守光基と称したが……西常得寺の境内に倉津家家老土肥半左衛門の供養塔がある。その由来を寺伝に聞くと、天童落城の時、家老土肥は身を以て安房の背信を責め、諌死したのだという。土肥半左衛門といえば慶長八年、父の義光の勘気に触れた義康が、高野山への逃避行路を六十里越街道に選んだ時、田川郡山添一里塚に於いて、義光の命により…義康を亡き数に入れた者と同名である。天正十二年に自滅した人が、慶長八年に生きている道理はないから、両者のいずれかが間違っているのか、又は後者の土肥氏は前者の子孫であったかのいずれかである。

 このように、この筆者は土地の古伝などを基にして書き上げたのだろうが、土肥半左衛門に就いての認識とは、この程度のものであったのだろう。蔵増の西常得寺には、寛永二年(1625)建立の半左衛門の供養塔がある。その案内板に書かれた「解説文」(天童市教育委員会・平成九年)を読んでみよう。

…この杉の木の下には、倉津安房守の家老職土肥半左衛門の供養塔といわれる石像五輪塔がある。土肥半左衛門は最上義光によって倉津安房が、小国に転封される時、これを止めようとして聞き入れられず、この杉の木の下で切腹したといわれ、供養塔はその時に建立されたと伝えられている。
 
 このように、蔵増の地で寛永の昔から伝えられてきた半左衛門像を見ると、[家記]に描かれた半左衛門達の悲惨な最期の様子を、真近かで知った蔵増の人々が、その一族の非業な最期を哀れみ、この地に供養塔を建て密かに供養し続けて来たのではないか。もう旧主の最上家は遠く去っては行ったが、反逆人の汚名を著せられ葬られた者達である。供養塔の建立は事件から九年後のことであり、表だっての供養も出来なかったであろうが、人々の記憶の中に生き続けてきた出来事は、時の移りと共に形を変えながら、今のような半左衛門像を造り上げたのではなかろうか。
■執筆:小野未三

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