最上義光歴史館

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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【本城満茂 (11)】

 この検地とほぼ同時期の慶長十八(1613)年に、満茂はその居城を赤尾津から本城へと移したと見られている。「本城満茂」の名が書状史料上に初出するのが十月十日付鈴木・斎藤連署書状(注28)においてであり、この書状が発給されたとみられる慶長十八年十月にはすでに本城へと支配の中心が移っていた。それより前に発給された同年二月五日付日野備中(注28)書状には、

  将又去二日(より)古雪御普請ニ御出被成候由、
  御太儀ニ存候、被入御念候由、長尾美作殿(より)も被申越候、
  其等之儀をも懇ニ披露仕候、

 とあり、慶長十八年の初頭には「古雪」の普請があったようだ。本城城は古雪湊を包摂する形でその城下町を形成しており、この普請は本城城の普請を指すと見てよい。姉崎岩蔵は、楯岡満茂がその本姓をもって同地を本城と改称した、としているが、『本城系譜』には「本氏 楯岡」とあり、その本姓が本城であったかどうかは疑わしい。それ以前に満茂が「本城」の名を名乗った事例はなく、楯岡・湯沢・本城と居城の所在地をその姓とするのが通例となっていた。もし姉崎氏の言うように、自らの本姓を所在地につけるならば、湯沢・赤尾津も本城と改称されていなければならないだろう。従って、元から存在した「本城村」の名が城名となり、満茂もその姓を本城とした、と見るのが妥当であろう。

 満茂が赤尾津より本城に移って九年後、幕府は最上家を改易とし、それに伴って最上領の各城も接収されることとなった。改易の理由となった、家督相続に関連して起こった家臣達の主導権争いの中、本城満茂がいかなる姿勢を保ったか、残念ながらそれを語る書状史料は残されてはいない。だが、『東武実録』によれば、「甲方」として鮭延秀綱・上山光広ら山野辺義忠を後継に推す派閥中に本城満茂の名がみえる。これら「甲方」の家臣達は、最上領内に大きな知行地を持つ城持上級家臣であり、その支配体制も最上氏からの独立性が強かった。幕府の審議の結果、藩主の主導権確立を企図した「乙方」の松根備前が筑後柳川へ流され、家臣達へは老臣が一致団結して藩主を補佐するようにとの厳命がなされたが、鮭延秀綱・山野辺義忠らはその命に従わず、逆に義俊を「天性魯鈍ニシテ、国家ヲ保ツヘキ気質ニ非ス」と評し管理能力の欠如を理由に藩主義俊の更迭・山野辺義忠の最上家家督相続を幕府に願い出る始末だった(注29)。幕府はこの動きを上意に背くものとし、評定の末ついに最上家改易が決定した。支城接収に伴い、家臣達は方々の大名へお預けとなったが、本城満茂は前橋酒井家へと流される事となった。酒井家においては客分として千二百石を給されていたようである(注30)。「実子無御座候ニ付弟楯岡長門守嫡男親茂ヲ奉願養子ニ候、」(注31)とあるように親茂を養子としてその後嗣としたとあるが、元和三年に最上家親が「本城播磨守」という人物に対して親の一字を与えている。満茂実子の可能性があるが、この播磨守の消息は判然としない。寛永七(1630)年に一度は隠居した満茂であったが、その後親茂が急死したため再勤し、長門守の婿養子信義の三男満旨を養子として迎え、跡を継がせた。
 満茂は、「本城氏系図」によれば寛永十六(1639)年に八十四歳で没したとされる。「本城家譜」の記述も寛永十六年、八十四歳で没とあり、またその生年は弘治二(1556)年とあり計算上矛盾も無い為、この没年は正しいとしてよいだろう。その後、本城氏は酒井家にあって要職を務めていたようだ。それは、寛延二(1749)年に酒井家が前橋より姫路へ移ってからも変わりは無かったのである。

 以上が本城満茂の動向である。本城氏に関しては比較的先行研究の蓄積が多いが、その家系に関する問題、あるいは楯岡城主を継いだ時点での問題がおざなりにされてきたこともあり、本稿で多少の私見を述べた。
<了>

(注28) 秋田藩家蔵文書
(注29)『上杉年譜』
(注30)『前橋御分限帳』
(注31)「本城系譜」


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