最上義光歴史館

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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【本城満茂 (10)】

 由利に入部した満茂は、当初居城を赤尾津城に置いたようである。これまでも、満茂はその居城の地名を姓として名乗っている形跡が見られ(楯岡豊前守・湯沢豊前守)、書状史料においても「赤尾津豊前」の名が見える(注20など)。赤尾津は、元々由利衆の中でも随一の勢力を誇った赤尾津氏の本拠地であった為規模が他の城に比べて大きく、改易に伴ってその城主は存在しなかった。また、赤尾津は由利衆の中では最も北に位置し、北の秋田に配された佐竹氏への押さえとしての機能も考慮されてのことだった。満茂が自領とした地域は、「由利ノ内赤尾津ニ所代テ、打越・潟保・羽川・石沢・下村・玉前ノ数ヶ所ヲ領ス、」(注21)と、岩屋氏と滝沢氏の所領を厳密に避け、打越や仁賀保ら他の由利衆が統治していた地域であったことがわかる。慶長九(1604)年には、家臣石川丹後・境縫殿助への知行状が発給されており、この頃には満茂の給地はほぼ確定していたのではないかと考えられる。

 慶長十四(1609)年には、越後の金鑿衆、いわゆる越後の金堀衆が、由利と仙北の境「笹子」で山落すなわち山賊に遭遇し、十数名が殺害される事件が起こっている。義光はこれを重く見て、満茂に対して犯人の追及と検挙を厳命した(注22)。当該地域が最上領と佐竹領の境であった為、捜査は困難を極めたらしく、犯人が藩境をまたいで逃亡・潜伏している恐れがあった。ゆえに、この問題は最上・佐竹両氏の懸案事項となり、満茂は佐竹氏と連携を取りながら捜査を行ったらしい(注23)。この地域は由利郡の東部最深部に位置しており、由利郡の中核地域からも離れ、また隣接した仙北の小野寺氏の影響も少なからず受けていた地域であった為、その中核に居していた支配者の権力が及びにくかった。よって、司法・警察権の空白が生じ、不安定な地域状況を招いたのである(注24)。

 慶長十六(1611)年から慶長十七(1612)年にかけて、日野備中・進藤但馬を奉行として庄内・由利の検地が行われた。拝領後直ちに検地が行われなかった理由としては、農民の抵抗が強かった為と、由利郡は太閤検地において徹底的に検地がなされており、その必要が薄かった事が挙げられよう。しかし、慶長十二年以降特に江戸参勤や江戸城の普請で軍役負担が増大し、その負担を補填する為に、最上家にとって新給地の総検地は急務であった(注25)。この検地にあたっての満茂の影響は詳らかでないが、この検地によって、本城満茂の知行高が再確定したのである(注26、注27)。
<続>

(注20) 秋田藩家蔵文書 十二月廿八日付最上義光書状
(注21) 『奥羽永慶軍記』 由理・山北所替事
(注22) 秋田藩家蔵文書 (慶長十四年)六月廿五日付進藤但馬書状
(注23) 秋田藩家蔵文書 (慶長十四年)七月廿九日付佐竹義宣書状
(注24) 長谷川成一「慶長・元和期における出羽国の社会状況 
             ――山落・盗賊・悪党の横行と取締り――」
   (『「東北」の成立と展開 : 近世・近現代の地域形成と社会』岩田書院 2002)
(注25) 井川一良「最上氏慶長検地の実施過程と基準」(『日本海地域史研究』11 文献出版 1990)
(注26) 『最上義光分限帳』
(注27) 『本城満茂知行書出写』


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